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そんじゃここまでだ、さよなら

section-43

女性に対して、神聖なものを見るような視点を持っていることを否定できない。間違いなく(というか誠に遺憾ながら)自分も女であることには変わりないのだけど、女性という生き物はただ存在しているだけで自分が守らなければならないような気になる。夜道をひとりで歩かせたり、重いものを持たせたりしたくない。男性がそれを言ったら「女だからってナメんなよ!」と言いそうな女の子でも、不思議とわたし相手だと素直に甘えてくれたりするので、より泥沼の中に溺れつつあるのかもしれない。自分も女として生まれたくせに、どうして女の子というのはそれだけで守りたいような気持ちになるんだろう。わたしが異常者だからだろうか?

女の子に対するそういうきもちが恋愛感情でないとは完全には言い切れない。わたしはどちらかといえば同性愛者よりのバイセクシュアルだが、今はたまたま異性と恋愛をしている。当然、恋人に対する感情は他のだれに対する感情より特別なものだけれど、それでも男の人に対する気持ちと女の人に対する気持ちはまったく違う。けれど、もしかしてわたしはこの子のことを恋愛的な意味合いで好きなんじゃないかと思ってしまうほど女友達のことを大切に思ってしまっていたりする。恋人に対する感情とはまったく別軸で。

先日、大学時代の友人とひさしぶりにご飯を食べに行った。第二外国語の授業で一緒だったので学部学科は違えど1年生からの付き合いで、たまに一緒にお昼を食べたり飲みに行ったりしていた。卒業してからもたまに連絡をとっていたのだが、たまたま職場がかなり近く、徒歩で行けるということがわかり、仕事おわりに中間地点くらいで待ち合わせをしてイタリアンを食べた。ウニのコンソメジュレなるものをスプーンで掬いながら彼女の最近の生活について聞いていたのだが、なんだかそれですごく悲しくなってしまった。大学在学中に彼氏をひとりしかつくらなかった彼女は恋愛や性に対してものすごく消極的で、ふたりで会えばわたしたちはそういう話題とはまったく関係のない話でいろんな隙間を埋めていた。大学生という職業でいる以上、友人のほとんどはそういう話をしてきてくれることが多かったから正直すこしウンザリしていて、わたしたちはそういう話題から切り離されたほんとうにどうでもいい、他愛のない話で盛り上がっていたものだった。

その彼女が今はいろんな男性と関係を持って、ほとんど家に帰らずその人たちに生活の面倒を見てもらっているのだという。そのうちの一人はわたしも知っている男の人だったからなおのことげんなりしてしまった。この後も会うんだけどさ、と言っている彼女を見ていて、この後その男の家に行ってセックスするのか、と思ったら殴られたみたいにショックを受けてしまった。聞けばその人には正式な彼女がちゃんといて、でも彼女とだとつまらないからその子とも関係を持っているのだという。友人はそういう関係性みたいなのに特にこだわりがなく、自分は特定の恋人を作りたいという気持ちもないのに、その男に束縛されるのが心底いやなのだと話してくれた。彼女がいるくせに自分の行動を束縛してきて腹立つ、という話を聞きながら、わたしは食べていたサラダの味がどんどんなくなっていくのをた。アボカドもサーモンも美味しかったのに。ごめんね

わたしが彼女の貞操観念や処女性みたいなものを崇拝していたというのならまだわかる。やきもちでもなんでもなく、ただ単に貞操観念や恋愛観みたいなものが似ている仲間だと思っていた人間に裏切られて悔しかったというだけの話だろう。彼女はハーフみたいな顔立ちの美人で、背も小さめで女の子らしいが、確固たる自分を持っていて強い。学内のどこにいてもすぐに見つけられるから、彼女のことを百合の花みたいだと思っていた。そんな彼女を一途に好きでいた男の子と彼女が2年の夏に付き合い始めたとき、ずっと右手の中指に嵌っていた黒い指輪がなくなった。わたしはその男の子とも仲が良かったから、ふたりが付き合い始めたのがうれしくて、学内で見かけるたびに意味のわからない絡みかたをして鬱陶しがられたりしていた。だから、わたしは彼女の貞操観念、あるいは異性に対して潔癖なところが好きだったわけではない。

美味しいはずのイタリアンはほとんど味がしなかった。デザートまで食べたいと言ってもぐもぐしていた彼女の頬を見つめながら、わたしは彼女に聞かれるがまま恋人の話をしたりして、何とか時間をつないでいたような薄い記憶がある。食べ終わって近くの駅まで送って行く時、このままふざけたフリして手を握ってしまおうかとほんの少し悩んだ。その役目を担うのは当時の彼でももうないし、当然わたしでもないから、しなかったけど。でも、このままその男のところに行ってほしくないと思った。哀しかった。わたしが彼女のどこかに開いている溝を埋めることができたらよかったのにと思った。

駅の入り口で別れてからJRの駅までの道、人目も気にせず大泣きしながら歩いた。大きな音で音楽を聴いて、意味がわからないくらい泣いていた。もうどうにでもなれと思った。自分の感情が追いつく前に涙が出た。そんなにすごく仲が良かったわけではなかったけれど、自分の意識や想像の及ばないところにあったなんかしらの意味合いで、わたしは彼女のことがすごく大切だったんだと思う。彼女の手を握りたいと思ったけれど、できなかった。だって彼女にとってわたしは大切な他者でも何でもない。それにわたしは、今は女として好きな人のそばにいる。

わたしはもしかしたら浮気者なのかもしれないけれど、わたしの中にいくつもの性別がいることがそもそもいけないことなんだと思う。だれであれ「女性」というだけでわたしにとっては大切にしなければならない存在で、適当に扱ってはいけないとおもっている。もちろん男性だからぞんざいに扱ってもいいと思っているわけではないけれど、でもだからこそ男性といるときのほうが気持ちは楽だ。女性といるときほど気を使ったり、気を張ったりする必要があまりないからだと思う。

このことを恋人に話そうか悩んで、もう1週間が経とうとしている。何度も言うが彼女に対する気持ちと恋人に対する気持ちはまったく別物だ。彼女の話を聞いたあとで胸を締め付けたあの絶望感はきっと恋愛にまつわるものとはすこし違っている。これから先もできればずっと一緒にいたいと願っているのは当然ながら恋人で、わたしは彼女の人生を背負い切ることはできない。だけど、すごく悲しかったのだ。彼女がいろんな男の人に(意味がどうであれ)大切にされながら、それでもまったく幸せそうじゃないのが。わたしならそんなふうに扱ったりしないのにと思ってしまったのだ。

中途半端な性別を抱えて、それでもそれを受け入れてくれた今の恋人を裏切るようなことは絶対にしない。ほんとうに感謝しているし、こころの底から大切に思っている。付き合ってもうすぐ半年になるが、飽きたり嫌になったりするどころか毎日より深く想うようになっている。今のこの状態を変えるようなことはしたくない。だけどこれからもわたしは女の子を大切に思い、自分よりもまず先に守ろうとするだろう。自分も同じ性別であることを差し置いて家まで送ったり、重い荷物を持ったりする。自分が女の子の前で紳士的な対応をしないでいるということが許せない。恋人にその片鱗を見せず、ずっと彼の前で女性としていられるだろうか。ほんの少しだけ、自信がなくなってしまった。

section-42

前回このブログで記事を書いてからもう数ヶ月が経ってしまっていたことに驚きを隠せないでいる。そのあいだにわたしはアイデンティティの半分くらいを削り、就活ではバサバサと切り落とされ続け、中学受験の繁忙期を乗り越え、月経前のくそしんどい時期を何日も過ごしたりしている。子宮ってなんのためにあるんでしたっけ。わたしの臓器なのにどうしてわたしを苦しめてくるんでしょうか

中学受験を終え、無事に合格した子たちが次々とうれしそうに報告をしてくれている。わたしはクラス授業を持っていないので、クラス授業だけでは演習量が足りないからと追加で個別授業を依頼してくれた子(結果、この子はわたしが通っていた中学に合格して後輩になることが決定した)と、受験科目が通常と異なるので国語のみ個別で対応することになった子の2名を担当していた。ふたりとも全戦全勝を決めてくれて、みのりちゃんありがとうなんて言ってくれて、鼻の下がとにかく永遠に伸びまくっている。わたしはただ載っていた解答を見ながら丸付けをして、正しい答えを見つけられるように遠回しに誘導していただけだ。彼女たちの頑張りはすごかった。12歳、あっぱれだ。

思えばわたしが12歳のときはあんな感じではなかった。塾にも通っていなかったし、なんなら受験なんてくそくらえだと思っていた。小学校にたくさん友達がいたタイプではなかったけれど、でも幼馴染たちと同じ公立中学に行きたかった。算数を解くのが絶望的に苦手だったということもあるけれど、とにかくわたしは受験なんてしたくなかった。後ろ向きな気持ちのまま受験した中学に結果的に合格して入学してからも、地元の友達が恋しくて学校があまり好きになれなかったのを覚えている。それでも高校でその学校を去るときにはバカみたいに泣いていたんだから、つくづく人間の環境に適応する力ってすごいなと思う。これからはじまる彼女たちの6年間もそうなるといいな。

3月からクラス授業を任されることになり、今から死ぬのではないかと思うほど憂鬱だ。もともと生きることにすら前向きでないわたしにまったく新しいことを任せないでほしい。1バイトに期待をかけすぎだ。あるときいきなり職員室で「発表があります!」的な意味のわからないノリで「3月からクラス授業をお願いすることになりました!」とか言われた。塾長も他の職員もみんないえーいみたいなノリだったけど、マジでテンプレみたいな愛想笑いしか出てこなかった。教科書になろうかな。いや、やりたくねえよ。3月からって、わたし3月いっぱいでやめる算段なんですけど。就職が決まればね。決まってないからまだやめる予定ないけど。これから一発大逆転があるかもしれないじゃん。

中学英語とかならまだわかる。もともと英語の講師志望で入ったし、学生時代も英語がいちばん得意だった。当然そうだろうなと思って詳細を聞くと、小6算数と小4国語。もはやだれをぶん殴ればいいのかわからず、帰るときに職員室の書類という書類をすべて床に落とそうかななどと考えていた。それでも1か月だけなら仕方ないとおもって了承して帰った。バカすぎる。だれだよ了承したやつ。クラス授業と個別授業を併用するめちゃくちゃカリスマバイト講師になることが決定してしまった。乞うご期待。

 

今年で24歳になるのだが、この年齢になるとまわりの友達がみんな結婚だとか妊娠だとか、まあとにかく持って生まれた家族とは別の家族をつくるステージのライフイベントに突入することも増えてきた。毎月毎月飽きもせずわたしの意思とはまったく関係のないところでホルモンを操作されて血が垂れ流されていくことに怒りを覚えているようなわたしには程遠い話だ。生物学上、そして本人の認識上の男性と一緒にいるようになっても、23年もかけて培った分厚いアイデンティティが簡単には崩れ落ちないことを憂いている。

「今痛いくらい幸せな思い出がいつかくるお別れを育てて歩く」わたしの敬愛する米津玄師様の代表曲「アイネクライネ」の一節である。痛いくらい幸せではないけれど、いつか来るお別れを育てながら歩いている感じは、今までずっとある。朝に手をつないで歩き出しても夜には離さなければならないのと同じように、きっといつか手を掴むことすらゆるされなくなる日が来るんだろう。終わりばかりを見つめているわたしはたぶんそうじゃない人と比べるとほんのちょっとだけ不幸なんだと思う。比べたことはないけど。今だけを見つめて今が楽しければいいと言えたらどれだけよかったか。どうしたって明日、明後日、その先のことまで考えてしまう。裏返したらその人とずっと一緒にいたいと思っていることになるんだろうけれど、自分の気持ちをまったく疑わずに相手のことばかり気にしているのがわたしの愚かなところだ。

大学の友人がタクシーの運転手をしていて、その子がよくわたしを迎えにきてくれる。その子は同じ入試方式で大学に入った女の子で、入学式の日からずっと知り合いだったのだけど、はっきりした物言いのサバサバした子で、わたしは彼女のことが話しやすくてとても好きだ。この前もめちゃくちゃ嫌なことがあって、でもそれをだれにも言えなくてどうしようもなくなり、仕事終わりにコンビニで買った強いお酒を大量に飲んでバカになったわたしと、そのわたしに付き合って介抱してくれた恋人を乗せて家まで送り届けてくれた。

途中で恋人が降りてふたりになってから「電話してきたとき(わたしが迎えにきてと頼んだとき)全然ろれつ回ってなかったよ。たくさん飲みすぎたら危ないんだから気をつけないとだめでしょう」と叱った後「今の男の子はなんの友達なの?こんな時間まで付き合ってくれるなんてやさしいね」と笑ってくれた。ふだんあまり自分のことを話すのが好きではないはずなのに、お酒が残っていたこともあって、実は恋人なんだよね、と言ってしまった。わたしの性別への違和感とか性的嫌悪とかいろんなものを知っているその友人はひとしきり驚いて、いつから付き合っているのかとやわらかく微笑んだ。1ヶ月とちょっとくらいだと答えると、じゃあ今が一番たのしいね、と笑った。

それを聞いて、正直、楽しくはないな、と思った。好きな人と長い時間一緒にいられるのはうれしいしとてもありがたいのだけど、自分以外のだれかと一緒にいる時間が長いと、わたしはすごく疲れてしまうのだ。少なくとも大切に思っている人と一緒にいると、何も考えずにいられるわけじゃないからだと思う。頭はずっとフル回転で、ずっと気を使っている。嫌われたくないとか傷つけたくないとかを通り越して、たぶんこれはもう癖なんだと思う。自分の感情の上にだれかの感情がさらに乗っかっているような感じ。楽しいかなあ、と適当に濁したわたしに、友人は何もかもをわかったみたいな顔で「大丈夫だよ」と笑ってくれた。

 

昨日、仕事が終わって職場を出た瞬間に大学の友人たちから急に電話がかかってきた。大学時代は男の子とばかりいたので、電話の相手も男の子ふたりだった。このご時世に渋谷で飲んでいるというふたりを軽く叱ったら、とても酔っていたらしいそいつは大学時代が懐かしいとめそめそしだした。彼氏ができたってほんとう?と聞かれたので、素直にそうだよと答えたら、どんな人?かっこいいの?などと質問されてから、ふと「お前が男と付き合うなんて、そいつはよっぽどの人間なんだろうな。よかった、よかった」と笑ってくれた。口にされたことはなかったけど、男なんて死ねくらいのことを男の子たちに言っていた当時のわたしは、かなり心配されていたらしい。ありがたいなと思った。

 

とにかく就活を終わらせないといけないんだけど、もうどうしようもないような気にもなっている。自分を作り込んで思ってもないことを言ってまで就職したい会社なんてひとつもないし、素の状態で面接をして落とされるのであれば、それはもうこちらとしてはどうしようもないのではないか。このまま塾の講師としてみのりちゃんと呼ばれて生徒の話を聞いたり、ときおり勉強をみたりしていた方がいいのかもしれない。将来に対して不安とかは特にないけれど、平等に期待もない。やりたいこともないし、成し遂げたいこともない。ただ呼吸と時間を消費して生きているような今のわたしに、だれかに対する文句や意見を言える資格などないんだと思う。それでも生きていかなければならない世界線、なんとかしてくれ。適応できない。

毎度のことながらどうしてこんなにもとりとめのない記事を書けるのだろうと自分で自分が不思議で仕方がない。しかもきっと明日になったら何を書いたかなんてほとんど忘れているんだろう。ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。もしもいつか会えたらわたしと花束みたいな恋をしましょう。

section-41

テス、テス、マイクテス。こちら、世界一のバカ。聴こえてますか?

何について書くんだろうと思いながらパソコンを開き、何についても別に書きたくないわたしに翻弄されながら今これを打っている次第なのだけれども、最近、わたしはいろんなことが嫌になってきてしまった。兎にも角にも、何をやってもうまくいかない。寝ようと思って布団に入ってもなかなかしっかり眠りにつけず、うつらうつらしてきたと思ったらすぐに目が覚めてしまう。怖い夢をみたわけでもたくさん昼寝をしてしまったわけでもないのにふわふわと薄いまどろみの中を漂い続けて、ほんの小さな物音で意識が浮上してしまう。なんかよくわかんない頭痛もずっと続いているし、お腹の調子も悪いし、すぐ冷や汗をかくし、身体も火照るし、きっと生理前なんだろうけど身体のいろいろなことが心のいろいろなことと噛み合わない。自分の身体なのにコントロールできなくて、ずっと頭の中で自分の身体をうまく動かすためのリモコンを探している。

ずっとこんな調子だから、何をするにも覇気がないように見えるだろう。目の下のクマはどんどん濃くなるばかりだし、何を見ても何を聞いてもぼんやりとモヤがかかっていて、薄いベールの奥に世界があるような感覚がずっとある。何かに対する熱が冷め、興味が薄れ、わたしは徐々に終わりに向かっているのではないかとさえ思う。いつかちゃんと意識が浮上して今まで通り生きられる日が来るのだろうか。ドカンと一発、わたしに大砲でも撃ち込んでほしい。今まで楽しく観ていたものも楽しく聴いていたものも平等にうるさいものでしかない。そんなこんなで前回のラジオをパスしてしまった

思えば毎年この時期は体調も気分もすぐれない気がする。原因がないといえば嘘になるのだが、でもそれについてつらつらと語る勇気は今のところない。こうやってそればかりにとらわれるから本来生きていくはずの道を踏み外してこんなバカが生まれる。なんとかしてくれよ

そろそろ終わりにしてくれと思いながらもう何年も生きて、わたしはついに23歳になってしまった。頭の中はずっと脳漿炸裂ガールで、だれかの真似事みたいに恋愛をすればリンネが流れ、うまくいかなければ恋愛なんてくそくらえだと御託を並べる。この世界に対する適応ができないまま図体と脳みそだけいっちょまえに大人に近づいてしまったガキって感じだろう。そういうわたしの一面を見抜いた「ちょっと経験しちゃった」人間からあれこれ言われるのがほんとうにしんどい。ほっといてくれ。うまく生きていけないわたしを、うまく生きている(ように見える)あなたに形容されたくないのだけど。

ふだんいろんな人がいろんな文章を書かれていてそれを吸収しながら生きているのだけど、わたしの文章は自己完結型、意味がかけらもこもっていない自慰文章だといつも思う。たとえば今日のこの文章ならば「わたしほどこの世界に不要な人間はいるのか?」というたったそれだけのことを書くために遠回り、回り道、急がば回れを繰り返している。たらたら長い修飾語と句読点で飾られた文章を作るという、なんの才能にもならない能力。可愛い女の子が必要ならわたしではなく妹にその役割を回せばいい。実際、職場の男は今がんばってわたしの妹と仲良くなろうと元気にわたしを利用しているところだ。あした妹も誘って三人で飲みに行かない?え、妹こられないの?じゃあいいや。おまえ何様やねん。King of anything?バーカバーカ。ハッ、世界一のバカはわたしだった。お詫びして訂正いたします。妹ほど可愛く生まれてこられなかったわたしにもわたしが全身全霊で謝罪いたします。申し訳ありませんでした。ははは

 

だれかの POP STAR になりてえな〜と思って日々を生きている。魔法をかけてあげよう〜。ただしわたしは親和欲求というものが恐ろしく欠如した状態で生まれてきているので、それはきっと一生叶わないだろう。親和欲求とか性的欲求というものはほとんどないと言っていい。「ほとんど」という言葉を使ったのは、頭の中に飼っている自分の中にはそれらが普通に存在しているからだ。頭の中の自分を使って想像すればわたしは多分どんな恋愛小説でも官能小説でも書ける。それらがどういうもので、どういう感情を誘発するものなのか、知識があるから。体験したわけでなければ経験したわけでもないが、それでももうひとりの頭の中のわたしが自分を犠牲にしてそれを想像し尽くすことで描写することだけはできる。それを確かめる術はないが。

 

今日もまたどうせ眠れないのだ。明日は職場の人間と飲みに行く約束をしているというのに。布団に入って目をつぶっても眠れない。目にも耳にもモヤのかかった世界にようこそ。もういっそ終わりにしてくれよ。ずっと終わりを祈っているのに適切な終わりが与えられずここまできてしまった。もう終わりです。ここで。はい。お疲れ様でした。

死にたいの?というご質問をときどき友人からいただくんだけど、別に死にたいわけではないのだ。わたしの想像している終わりは「死」というものとはまた少し違った次元にあるような気がする。知らんけど。とりあえずこの目の下のクマをなんとかしてくれ。水曜日にライブに行く予定なのにこんなんじゃそもそも公衆を歩けない。そして次が最後のライブになるかもしれない。探さないで。いつの間にか消えたことに気づく距離ならば

 

ほんとうに書きたかったことっていつも書けないで終わる。今日もそう。でもそれが文章を書くということの本質な気がする。自分の書く小説の中に自分の願望とか理想とかをぜんぶ詰め込むのは、そのお話の中に自分が一切出てこないからだと思っている。少なくともわたしの書く物語みたいなものは、だれかに自分の生きたかった人生を生きてもらうことで成立している。わたしの生きたかった世界線の人だったり、あるいは生きたくなかった世界線の人だったりする。架空の、あるいは理想の世界の中で生きる自分が書いた日記を書き起こしている感じ。キモ。お前ごときが語るなよ。まあいいか。わたしは世界一のバカだった。なんでもいいよね。

section-40

数年ぶりに教会の礼拝に出席するために早起きした。まあ早起きと言っても8時半くらいだったんだけど、普段のわたしから考えてみるとかなり早い。えらい。えらすぎる。家に帰ってから普通にベッドで昼寝してしまい、くっそエロい夢を見て起きた。なんでこんなことになってんの?と夢の中でも思い続けて、なんでこんなもの見させられてんの?と夢の中で必死に叫んでいたら目が覚めた。はあ。ただふつうのエロい夢ならいいんだけど、なんかすごく情景がリアルで恐ろしかった。リアルじゃなかったのはわたし以外の登場人物だけ。もう二度と見たくない

 

先日、中高時代の友人たちと電話をした。高校卒業時に卒業旅行にいったメンバー8人のうち5人くらいだったと思うのだが、他の3人がもう寝るからと電話を切ってしまってから、めちゃくちゃ意味のわからん発言をしてわたしをイラつかせた奴がいたのでそいつの話をしようと思う。

時代は遡って大学2年のとき。ある日いきなりその子から連絡がきた。飲みに行かない?と誘われて、5限の授業のあとに渋谷のヒカリエの中にあるバルみたいなところでひさしぶりに会って、お酒を飲んだ。当時、その子にははじめての彼氏なるものがいて、馴れ初めから何からいろんなことを聞かされまくっていた。程よく酔っ払って程よくめんどくさくなっていたわたしは「そんなにかっこいいなら今から会わせろよ」などという恐喝まがいのことを言い、わたしと彼女とその恋人は、めでたく(なぜか)東京タワーの下で初顔合わせをすることとなったのだった。それ以降いちども会ってないけど。

それからもう3年くらい経って、現在、彼女はどうやらその当時の恋人と結婚したらしい。苗字が変わっていた。知らなかった。それで、一生懸命わたしに「専業主婦の大変さ」をプレゼンしてくれたのだった。あの頃「私の彼氏めっちゃかっこいいんだよ」とのろけてきたのと同じ熱さで。今度こそほんとうに鬱陶しかったのだけど、それを邪険に扱うほど子どもでもないのでしっかり聞いていた。わたしってほんとうに優しい。

「専業主婦ってほんとに大変なんだよお!」「何が大変なの?具体的には」「掃除も洗濯もしなきゃいけないし、ご飯の献立も毎日考えないといけないんだよ」「でもそれ今までずっとお母さんがやってきたことじゃん?」「そうだけどさあ、毎日だよ?しかも家のことだけじゃなくてちゃんと自分磨きもしておかないと、◯◯さん(なぜか同じ名字になったのに旦那さんのことを名字で呼んでいた)に女として見られなくなる日がきたらどうしようって不安なんだよ」「ああー(わりともう引いてる)けど今まで料理なんかしたことない!みたいなこと言ってなかった?大丈夫なの?」「あんまり大丈夫じゃない!」「やばいじゃん」「だからよくお母さんに来てもらって作ってもらってる」「いやいやそれあんたがやってることにならないじゃん!あと、くよくよ考えちゃうんだったら短時間のバイトでもパートでもしてみれば?」「え!自分磨きもして家事もして仕事もするってこと!?無理だよ!忙しすぎる!それに◯◯さん(あんたもその名字じゃん、というツッコミはもう2回目くらいで諦めた)も、働かなくていいよ、お家にいていいよって言ってくれてるのにわざわざ外に働きに行く意味なんてなくない?」

こいつなに?

世の中には、家事もして子育てもする人もいれば、働きながら家事もして子育てもしている人もいるのに、お前はなんやねん。あなたがエステやらネイルやら行っているそのお金はどこから出てるんだ?ついでに、自分磨きって言葉つかってる人まだいたの? しまいに彼女は「いいなあみのりはメイクしなくても外歩けるんでしょ?仕事もしてるし、実家暮らしで、洗濯してくれるお母さんもいて、ご飯作ってくれるんでしょ?」という爆弾を投下してきた。まあわたしは働いてはいるけど実際のところ就活生で、フリーターみたいなもんだし、反論する気もわかなくて、ああまあそうですね的なかんじに返していると「早く相手見つけないと23歳なんてもうおばさんで買い手どんどんいなくなるよ。子どもも年取るにつれてどんどん産めなくなるんだし」などと四千頭身もびっくりの怒涛のたたみかけを披露してくれ、最後には「眠いし肌に悪いから寝るね。やっぱ中高時代の友達にはなんでも話せるわ〜」と電話を切ってお眠りになられた。いや、大殿篭られた。何こいつ。わたしよく今日までこいつと友達やってたね、と思った。Yちゃん見てますか?あなたの「中高時代の友達」という枠組みの中に金輪際わたしを入れないでいただけると助かりますよろしくお願いします

早く結婚しなねじゃねえよバカ、と思ったけど言わなかった。買い手売り手で人間の(特に性別の)価値を語るんじゃねえよハゲ、と思ったけど口にしなかった。みんながみんな子どもがほしいんだと思って発言するんじゃねえよオタンコナス、と思ったけど、価値観の違いだろうからと声にしなかった。あんたのその有り余るオンナオンナしい部分を半分くらいわたしに分けてくれ。あの子は毎月毎月自分の意志と全く関係ないところで飽きずにバカみたいに生理がきて、アイデンティティを揺るがされるほど落ち込んだことなんてないんだろうなあ。ずっと生まれたときからちゃんと女の子として大切にされて生きてきたあなたに気持ちがわかるわけないでしょうね、と思ってなんだか悔しさも消え失せてしまった。こうやってどんどんわたしはわたしのことをゆるしてあげられなくなっていく。お前みたいなボケナスが放った何気ない一言で、不必要にどんどん急降下している。つーかなんなんだお前。たかだか6年間学校が一緒(中1と高校3年間おなじクラス)だったってだけでわたしの人生に口出しすんな!そして二度と連絡してくんな!バカ!ハゲ!オタンコナス!!!

 

わたしのモットーは、他人の人生に口出ししないことだ。言い換えれば、他人に自分の価値観を押し付けないこと。期待しないこと。決めつけないこと。そして、自分の感覚や感情は決まった人にしか話さないこと。

だれに対しても、こうあってほしい、こうしてほしい、こんなことしてほしい、こうした方が絶対いいのにな、というきもちを抱かない。抱かないようにしているわけじゃないんだけど、そういうきもちがそもそも発生しない。それを悪だといっているわけじゃない。わたしが単に考えすぎな自意識過剰人間なだけ。だって仮にそれが今回のわたしみたいに、その人にとって「選びたくても選べないもの」だったら?わたしの勝手な期待によって不必要に傷ついてしまったら?どうやって責任をとる?しかもそれが友達じゃなくて有名人とかだった場合、わたしは、その人がわたしが勝手につぶやいた期待を読んで傷ついていることを知らないまま死んでいくことになる。

先の彼女の頭の中では当たり前のこととして存在していた方程式は、わたしの中ではなんの完成もしていない、まとまりのない文字だけで存在しているのだ。今回、わたしは最悪、この女友達(ただの知人と言いたいところですがそこまで子どもじゃないのでしっかり友達と明記しますよわたしは)に「てめえみたいな価値観を全員が持っていると思うな。お前の価値観・性別感・人生観を押し付けるな。わたしの人生の内部にいる人間はわたしだけだ、外野は黙ってろ」と言えたかもしれない。でもそうやって口にすることが叶わない距離感の人間だったらどうしよう

自意識過剰だキモいぞバカ、と言われたらそこまでだけど、わたしは実際、そういう配慮を全くしていない人間どもにいくらでも傷つけられてきたから、自分はだれのことも傷つけずに生きていきたいのだ。いやそれは無理だけど、せめてつけてしまう傷の大きさを最小限にとどめたいのだ。

価値観を押し付けてくるという点では、自分よりも年上で、昔の価値観を引きずったままの人であれば仕方がない。それはその人の生きてきた時代が作り上げた価値観であって、その人個人のものだけではないから、チクチク傷つきながらもにっこり笑って流せるようになった。大人だからね(しつこい)23歳になったときおばあちゃんに「まだ恋人はいないの?「私があなたくらいの時にはもう子どもがふたりいたのよ(どひゃー)」などと言われたけれども、まあまあ、くらいに流すことができた。だけど同期のその押し付け方には目をつぶれない。自分の価値観だけが正しくて、みんながみんなそれで幸せになれると思うな。いや冷静に考えればこれも他人に期待しているってことになるんだろうけど。

 

わたしは期待をしないぶん、嫌いにもならない。仮に明日、彼らがめちゃくちゃ太っていたり、髪が抜けちゃってたり、ボケちゃってたり、どうにもならない犯罪を犯していたことが発覚して逮捕されるとしても、ずっと同じ温度で好きでいられる自信がある。彼らの価値を決める肩書きみたいなものなんてすべて付属品でしかないからだ。逆に言えば、そのくらいの覚悟がないと人のことを応援しようと思わない。好きにもならない。わたしが一定以上の感情を抱く人は「明日(将来も)どうなっても好きでいられる」という自信がある人だけで、それ以外の人に対しては好きも嫌いもない。意図的にしろ無意識にしろわたしを傷つけてくる人のことは無条件に嫌いだけどね。

わたしの友人関係は「この人なら裏切らないだろう」という期待ではなく「この人にならいつか裏切られても構わない」という信頼(ある意味、諦観)のもとに成り立っている。

 

ここまで話すと、何が期待で、何が期待じゃないのかわからなくなってくる。でも、大切な人間に願うことは、ただただ幸せに笑っていてほしいということだけ。それだけはずっと期待している。というか、祈っている。「幸せに過ごしていてくれ」ということだけは、ほんとうに無責任にずっと祈っている。なぜなら「幸せでいる」ということが人生において一番難しいことだと思っているからだ。いろんなしがらみにやられないでいてほしい。

「幸せでいる」ということの中を覗き込めば、それはそれは数多くの期待が込められていることに気づく。笑っていてほしい。苦しいことはしなくていい。無理はしないでほしい。だけどこんなの、仕事上でも、プライベートにおいても、そもそも人生において実現できるわけがないのだ。どこかで無理をするし、どこかで苦しい思いをするし、どこかで笑えないときがやってくる。人間必ず試練のときがある。だから祈るのだ。無責任に。その人生の圧倒的部外者であるわたしが、全然関係ないところで、どうかずっと幸せでいてほしいと祈る。

気づきもしないような、目に見えないどこかで自分のために無責任に祈っている人がいるという、小さな幸せのひとつにもならない事実を無意識に甘受して、今日も明日もできるだけ平和に生きていってほしい。少しでもその人生なりの幸せに近づいてくれるなら、ファン冥利に、友人冥利に、家族冥利(こんな言葉あるの?)に尽きるというものだ,

section-39

なにか書きたい気分になったけど特に書きたいこともなく、どうしようかなと思いながら自分のプレイリストを流し聴きしていたとき、ある曲が流れてきて、この曲について書こうかなという気になった。「本棚をみられるのは頭の中を覗かれているみたいだ」とオードリーの若林様が以前どこかでおっしゃっていたけれど、全くその通り。わたしの場合は本棚と、音楽のプレイリストがそれに値する。わたしは歌詞で音楽を聴くタイプなので、どういう言葉に共感してどういう思考回路なのかまですべて覗かれてしまう気がする。だけどたまには頭の中をぶちまけてもいいんじゃないかという気になったので、書いてみようと思う。

男の人で感受性が鋭くて語彙が豊富で表現が繊細だなって思う作詞者がふたりいる。そのうちのひとりが米津玄師さん(もうひとりはボカロPのぬゆりさん。ちなみにほんとうにあの曲を作詞しているのなら相田さんの書く歌詞がすごく好きだ)米津さんの脳みそや思考回路を丸ごともらいたいくらい好き。彼のことを知ったのは「ドーナツホール」がYouTubeに投稿された時だから、もう7年くらい前の話になる。


ハチ MV「ドーナツホール」HACHI / DONUT HOLE

バカみたいにリピートして聴いていたときに間違えて「アイネクライネ」のPVを再生してしまって、それからどんどんハマっていった。当時セカンドアルバムが出たくらいの時期で、たぶん高1とかだったと思うんだけど、周りに「ハチ」を知っている人はいても「米津玄師」を知っている人がいなかった。でもわたしがずっと学校で歌っているから席が近かった数人が覚えてくれて、他の曲も聴いたけどめっちゃいいね!って言ってくれた

ライブにも何回か行かせてもらっている。最初は大学の同期と行ったんだけど、だれかが横にいると思い切り泣けないことに気づいたのでその次からはひとりで行くようにしている。幕張メッセのスタンディングで、一番後ろにぼんやり立って号泣している奴を見かけたことがあったら、それはたぶんわたしです

好きな曲なんてたくさんあって紹介しきれないんだけど、最近のアルバムから1曲だけ。アルバムが届いて歌詞カードを読んでからずっとこの曲を聴くことを避けていたんだけど、今日はこころにゆとりがあったので聴いてみた。やっぱりしんどくなったし、いろいろ考えさせられたのでちゃんと言葉にして残しておこうと思います

ちなみに新しいアルバムに入っていた菅田くんの楽曲をセルフカバーした「まちがいさがし」はもう何も言わなくても全部がいいので、割愛させていただきます。

まちがいさがし

まちがいさがし

  • 米津玄師
  • J-Pop
  • ¥255

「深い春の隅で だれにも見せない顔を見せて」ってところ、何回聴いても死んでしまいそうになります

 

優しい人 ー 「STRAY SHEEP」より

優しい人

優しい人

  • 米津玄師
  • J-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

あなたみたいに優しく生きられたらよかったな

自分以外の他人に対して絶望的に優しい人の「そばにいる人」のきもちをうまく言語化している。心のきれいな人のそばにいて、自分の心の汚さや醜さみたいなものが洗い出されていく感覚。この人みたいになるのが人間としての正解だと思いながら、それでもどうしてもきれいになりきれない自分への嫌悪感みたいなもの。「優しいあなた」が気にかける「あの子」が気に入らない「優しくないわたし」の構図、切なくて人間臭くてなんども死にそうになる

周りに愛されず笑われる姿を 窓越しに安心していた

ババ抜きであぶれて取り残されるのが 私じゃなくてよかった

簡単に言ってしまえば、嫉妬とか、優越感とかがテーマの歌なんだろう。自分の好きな「あなた」が他の子を「きれいだ」と言ったことについて。そしてその他の子というのが、俗な言い方をすればいじめられっ子で、みんなから嫌われている子だったからなおさらモヤモヤしている。だけど、自分のことをもっと気にかけてほしいとか、大切にしてほしいとか、わたしはあなたみたいじゃなくてよかったとか、簡単なきもちだけじゃない。このままじゃだめなんだろうなってことがわかっているのに、それをどうにかする術もわからなくてどうしたらいいかわからないみたいな。「優しくなりたい 正しくなりたい」という歌詞が痛い

頭を撫でて  ただ「いい子だ」って言って

あの子を見つめるその目で見つめて

「優しいあなた」に気にかけてもらったり、やさしい目で見つめられている「あの子」が羨ましくありながら、でもあの子みたいに生まれてこなくてよかったと思っている。これってだれもが持ってる感情なんだと思う。言語化しないし、表面化しないだけで、みんな「ああやって生まれなくてよかった」って思ってるんだろうな。わたしもある。きっとこれを読んでいるあなたにも。

section-38

普通になりたいとずっと思って生きている。こういうことを言うと「そういうこと言うやつってだいたいめっちゃ普通だよね」「大した苦労もしてないくせに自分を普通じゃない認定すんじゃねえ」って言われがちなんだけど、わたしは物心ついてからずっと、普通になりたいと思っていた。じゃあお前の言う普通ってなんなんだって言われるとどうにも答えようがないんだけど、普通ってなんなんだってわたしに尋ねられるくらいにはあなたは普通に染まって生きてきたのねと思ってしまうところからなんだと思う。

就活の面接とか、面談とか、職場の人との世間話の中で「どうやって生きていきたいか」「どんな社会人になりたいか」「10年後、20年後にどうなっていたいか」という質問をされることが多い。噛み砕いて言えば「あなたのライフプランを教えてください」というものなのだけど、わたしにはそのライフプランというものがないのだ。ひとりで生きていけるだけのお金を稼いで、死ぬまでの時間をひとりで生きて行く。以前ニッチェの近藤さんがなにかの記事の中で「独りで生きて行く覚悟を決めていたから、大抵のことはひとりでなんでもできるようにならないといけないと思っていた」とおっしゃっていて、わたしはその記事を読んで大いに頷きながら泣いていた。ほんとうにその通りで、それはそっくりそのままわたしの人生計画だったのだけど、他人が言っているのを聞くとこんなにも哀しい響きを持つものなのかと思って、客観的に泣けてきてしまったのだ。

「まだ若いんだからこれからいくらでも出会いがあって別れがあって、そのうち結婚相手とかも見つかるよ」「人生なにがあるかわからないから案外ポッと結婚しちゃうかもよ」「なにごとも経験だよ」なんて言ってくださる方もいらっしゃるんだけど、そういう類の言葉を聞くだけで涙が出てしまうのだ。そのどれも選べないわたしはただのカスで、燃え尽きるまでの人生を浪費しながらただ呼吸をしていくしかないのだ、と思ってしまう

いやもしかしたらほんとうにそうなのかもしれない。わたしがまだ出会っていないだけで、こんなカスみたいなわたしでもいいと言ってくれる人があらわれるのかもしれない。こんなカスみたいなわたしでも受け入れられるような人があらわれるのかもしれない。だけどその人にわたしがあげられるものなんてないのだ。わたしにはできない。何も。わたしは何ももっていない。だれかを受け入れられない。生きていけない。選ばないんじゃなくて、選べないのだ。

ひとりで生きていくということを選択しているのはわたしなのに、自分の性的指向や精神の未発達さを冷静に見つめて、わたしはわたしにそれを「選ばされている」と思ってしまう。不本意な選択をしているんだと思っている。選びたいものを選べなかったから仕方なくそれを掴み取るしかなかった。生まれる順番を自分で決められないのと同じように。両親を子どもが選べないのと同じように。わたしもほんとうはみんなみたいにだれかと手をつないで歩きたい。だけどわたしは正当なハグを拒んでしまう。だれかと親密になって、だれかを大切に思う自分の価値を認めてあげられない。

「恋人ほしくないの?」と聞かれて「全然ほしくない」と答えるが、それはまったく嘘ではない。もともと「恋人」という言葉のもつ意味が好きではない。思い出を共有する人間は今のところまったく必要でない。だけどこの先もずっとそうなのだということを考えると、ズンと胸の奥が重たくなるのだ。ひとりでも平気って顔をしているくせに、ほんとうは独りじゃなんにもできない。好きだと思う人や恋人を作っていたら哀しいなと思うような人がいても、その人にとってのわたしの価値なんて燃えカス程度でしかないことを知ってしまっているからどうにもしようがなくなってしまう。手をつなぐことにだけ固執するわたしとでは、何の関係も結べないだろうから。

わたしがふだん感じているきもちをうまく言葉にできない。でも最近、結婚したり同棲したり、だれかと生きて行くことを選択するともだちが多くなってきて、自分で選んでひとりでいるくせにしんどいきもちでいっぱいになってしまった。じゃあ恋人でもつくればいいじゃないと言われても、それもできない。どうしてかと聞かれてもあんまりうまく言えないけれど、わたしにはできない。わたしの上位互換は、この世界にたくさんいる。それに、かみさまはわたしにその適性を与えてくれなかった。こんな最低な日々に早く火を投げてしまいたい。どんな選択をしても、わたしは自分の世界を救ってあげられない。

毎日毎日こんな意味のないことばかりをぐるぐる考えて、わたしはもう疲れてしまった。好きだと思った人にちゃんと好きだと言いたい。うまく言葉にできない感情を、ふだん自分が持っている感情をうまく伝える術がほしい。わかってほしいとは思わない。自分の感情を飲み込めるようにいくら願っても、どう頑張っても自分の気持ちを救えない。さっさと死んでしまいたい。そんなに悩むことかな、と言われてしまったらもうそれまでだ。人間の悩みなんてそもそもだれかに理解されがたい。共感されてもイラっとするけど、否定されると哀しいよ。ちゃんとした性別をくれ。そうしたら人を好きになって、その人に好きだって言いたい。異性でも同性でもどっちでもいい。なんでも受け入れられるなら、初めからちゃんと覚悟を持って好きだって言える。いや、浮ついた気持ちでも好きだって言えるだろう。無責任に好きだと言いたい。ちゃんとした性別と、愛着と、三大欲求をくれ。睡眠と食だけで生きている人間は、この世界では弾きものにされるみたいだから

section-37

品川駅前にある名高いホテルのレストランでひとりで食事をしていると、向かい側のテーブルに座っていた家族連れの男性がローストビーフを口に入れたのが見える。あ、わたしも次はそれを取りに行こう、と決めて自分の目の前に置かれている食事に視線を移そうとした瞬間、ローストビーフを食べていたはずのその男性が立ち上がっていきなり踊り始める。それを合図にその会場全体に賑やかな音楽が鳴って、わたしの周りにいたひとたちがみんな一斉に踊りだす。わけがわからないまま口を開けてそれを見つめ続けていると、曲の終わりとともに腕をパッと伸ばした男性がわたしに向かって一言。「あなたの今までの人生、いかがでしたか?」答える間もなくその場の照明がすべて暗転する……。ああ、人生がフラッシュモブで終わればいいのに。

 


 

さみしいという言葉が持つ破壊的な引力をわたしはずっと信じている。内包されたさみしさを抱きしめて生きていかなければならないのが人間だとしたら、かみさまはそのために人間につがいを作ったのかもしれない。ただ生きているだけでは埋められないさみしさを埋めるために愛情や性欲を与えたのかもしれない。さみしいという言葉が持つ破壊的な引力をわたしはずっと信じている。わたしたちは自分にとって必要ではない人間に対する優しさを持ち合わせていないから、だれかといてもさみしくて、ひとりぼっちでもさみしいのかもしれない。だれかの隣があたたかく感じられるのは、わたしたちはいつか訪れる死ぬその瞬間をひとりで迎えなくてはならないことを知っているからだ。

さみしいというだけでどこへでもいけるような気がする。見捨てられたような色のない世界、愛されていないと思ってしまうような感情論、失った愛、記憶の欠片、そういうもののなかにさみしさはいつも存在している

背筋が凍るほどの無関心に触れたせいで、それでも関わっていくしかない美しい人間関係にやられてどこにも居場所がないことを再確認してしまった。一縷の関心が存在していてなおそこにいるのが奇跡のような存在であってほしいと思った。きみさえそこにいてくれたらどんなによかったか。どんなによかったか。きっときみにはわからない

めちゃくちゃに傷ついたときのことを思い返して、あれはほんとうに傷ついたのか、もしかしたら傷ついたふりでうまく生きていきたかっただけなのかもしれないと思ってなにもいえなくなってしまった。読み返した日記の感情的な表現ばかりを黒く塗りつぶしてはなんども生あくびを落とした。 いつか壊れる平穏な日々のことを思い出して泣き出してしまいたかったけど、見つめていた世界が一瞬だけぼやけた気がした。もうわたしはどこにもいないことを知ってそっと笑った

 

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高輪ゲートウェイ駅3階にあるスタバから夕暮れ時の空を見ているといい感じにメランコリックになって、バカみたいに自分に酔えてしまうのでかなり危険だ。あのスタバのコンセント付きの席に座って夕暮れ時に駅構内を行き来するひとを見ているときのわたしは完全に悲劇のヒロイン顔でいるはずだ。たいしてしんどくもないくせにしんどそうな顔をするのが得意なのかもしれない。繋がりのあるまともな文章すら書けないわたしに、考えることなんてほとんどない。自分で購入したはずのスタバのドリンクが何色なのかわからなくなるまでそこに座っていればいい。だってわたしは楽観的に生きていて、何にも不自由していないのだ。足りないものなんて何もないに等しい。望むものを手に入れられなかったなんてのは、ただのわたしのわがままでしかない。わたしがどう暴れてもどうにもならないものを欲しいとあがくのは時間の無駄。そうおもっていろんなものをあきらめる。そうして、やがて静かにやってくるはずの人生の終わりを待つしかないのだ。

 

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だれであろうとみんな同じであると思いながら他人に期待してしまう癖がいつまでたっても抜けない。そのわけのわからない癖のせいで傷ついて、もう二度とだれかのことを信じなくても生きられるようにしなきゃと思ってもまた同じことを繰り返す。いろんなことをすべて忘れたいけど、忘れちゃったらその断片的な記憶はわたしのかけらではなくなるわけで、そうしたら今までそれも含めて完成に近づこうとしていた「わたし」というパズルみたいな「人生」が終わらなくなってしまう気がする。

自分のことを全く必要としていないひとやものを必要とする。理由なんかどうだっていい。いつか一緒に食べたものが美味しかったからとかちょっとだけ唇のかたちが好きだったからとか不意に笑った時の目の細め方が好きだからとかそういう些細な、自分にしかわからないようなめちゃくちゃな理由で十分だ。だれかと共有することも、わかりあうこともない。そういう妙な、だけど確かな理由は大切に思うのには充分だ。必要とするってことには体力がいるし、気力も、精神力もたぶんたくさん必要だと思う。

自分のことをかけらも必要としていない人を必要とする。それで満たされた気になってほんとうはめちゃくちゃ傷ついている。背中を向けられるか背中を向けるかでしか歩いたことがないくせに、横並びになんて到底なれないほどの存在でしかないことを自覚しているくせに、潜在的にそんな考えを振り払おうとする思考力だけがわたしの味方になって、その思考にすがりついて離れないように呼吸を奪う。絶望に溺れた承認欲求がわたしのことを馬鹿にしている。必要じゃないなら呼び止めないで。黙らないで。でもなにも話さないで‬。信じられないのならいますぐにでも海の果てに連れていって見捨ててくれればいい。‪卑屈な覚悟と意味のない言い訳は無邪気に存在意義を傷つける。夏の夜に溺れた匂い、わたしはただいくつもの小さな傷を撫でながらしずかにやってくる朝を待っていた