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そんじゃここまでだ、さよなら

section-25

こし前に塗った足の爪の色が気に入らなくなって落としていたらあっという間に色がなくなって、あしたからの人生どうしようなんて思っていたら3時間が経っていた。書きたいことなんてなにひとつないのに何か文章を書かなければならないような気がしたのでこれを書いている。内容はたぶんない。

 

わたしはいつも今を生きているつもりだけれどふと気がついたらその時の今はもう過去になっていて、いつの間にか記憶の彼方に消えようとしている。じゃあ今ってなんなんだ?人間が愚かな勘違いをしているだけで今なんて概念は1秒も存在しないのかもしれない

わたしが生きていたことはいつか過去になる。だれかの面影になる。この世界に生きていたひとがみんな死んだら語り継ぐひとすらいなくなって、いつしか忘れ去られる。わたしがなにかを残さなければなにも残らずに消え失せてしまうということを実感してからは生きにくくてどうしようもない。べつになにを残したい訳でもないけど、こころがずっとハイヒールで踏まれているように痛んでいる。そういう、生きていくうえで死ぬほど邪魔でどうでもいい感情をビールで流し込みたいけれどそういえばわたしはむかしから炭酸が飲めなかった

 

どうして自分が生きているのかを考え続けていたらもう10年近くが経っていて、だけど時間が忘れさせてくれることなんてひとつもなかった。忘れたようにおもえることは忘れたんじゃなくて時間が経ってすこしずつ薄くなってきただけで、消えたわけじゃない。記憶が原液だとすれば時間はきっと雨で、多く降り注げば降り注ぐほどだんだんと薄くなって、しまいには見えなくなる。何年も何年もかけて降ればもしかしたら完全に水になる日が来るのかもしれないけれど、それを見届けるまでわたしがちゃんと生きていられる確証はどこにもないし、雨はそんなに降り続かない。

 

昔からおもっていることだけど、さみしいというだけでどこへでもいけるような気がする。さみしさは人間を人間から遠ざける唯一の感情だと思う。見捨てられたような色のない世界、愛されていないと思うような感情論、失った愛、記憶の欠片、そういうもののなかにさみしさはいつも存在している。さみしいという言葉が持つ破壊的な引力をわたしはずっと信じている。内包されたさみしさを抱きしめて生きていかなければならないのが人間だとしたら、かみさまはそのために人間につがいを作ったのかもしれない。ただ生きているだけでは埋められないさみしさを埋めるために愛情や劣情を与えたのかもしれない。さみしいという言葉がもつ破壊的な引力をわたしはずっと信じている。自分にとって必要ではない人間に対する優しさをわたしたちはもちあわせていないから、だれといてもさみしく感じられ、ひとりぼっちでもさみしく感じられるのかもしれない。だれかの隣があたたかく感じられるのは、わたしたちは死ぬその瞬間をひとりで迎えなくてはならないことを知っているからだ。さみしいというだけでどこへでもいけるような気がする。

 

いつだって生きていくということに漠然とした不安があって、それはこの先だれにも必要とされなかったらどうしようとか、こんな役立たずなのにこれからだれかのために働かなくてはならないのかもしれないとか、だれかのことを愛することなんてできないかもしれないとか、そういう小さな不安なのだけれど、それでも、それが大きな棘となってわたしの心を壊そうとする

 

さみしいとおもうことなんてしばらくなかったので、あたりまえを失うとさみしいのだという事実に溺れそうになっている。だけどいつしかあたりまえが消えた日常がまた新たなあたりまえになって、更新され続けるあたりまえに気づくことなく生きていく。人生はあたりまえとあたりまえじゃないことの連続なんだろうな。だけどたぶん、あたりまえの道で角を曲がったらあたりまえじゃなくなるから生きていけるんだと思う。

 

きょうもほんとうに書きたいことは書けなかった。相田さんのコラムすごくよかったです。わたしもだれかに話しかけるような文章を書きたい