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そんじゃここまでだ、さよなら

section-27

「人間」という枠組みがあるとして「普通」というカテゴリーがあり、それに入っていない人間を馬鹿にして無下にする風潮が、多かれ少なかれ人間社会にはあると思う。弾きものにされたこっちだって、自分を弾きものにしてきた大きな集団を非難する権利くらいはあるだろう。でもそれをゆるしてはもらえないから、わたしたちは「弾き者」でいるしかない

まあ、実際は別に混ぜてほしいなんて思っていない。むしろ、マジョリティになんて染まってやるかと思いながら、それを一種のアイデンティティにしてここまで生きてきた。後ろ指を指されておかしいと揶揄されても、おまえなんか混ぜてやらないと仲間はずれにされても、それがどうしたと思いながら背筋を伸ばして生きてきた。だけど、まちがいなく傷ついている。だけど、それを外に出すのもださいから、隠している。

ものごころついたときから、周りと違うことはたくさんあった。いちいち口に出さないけれど、みんなが持っている「当たり前」に自分を当てはめることができなくて、自分っておかしいのかな、どうしたらみんなと同じになれるのかな、と悩んでいたこともたくさんあった。今でもある。でももうそれをいちいち気にするほど子どもじゃない。ああ、なるほどね、と思って簡単に切り捨てられるようになってしまった。悲しくも。寂しくも。ただ「ふつう」がはびこる世界で、どうやったら自分が傷つかずに、相手に不必要に揶揄されずに生きていかれるかを、身につけてしまった。

みのりちゃんって変わってるよね、とため息をつかれたときも、ほんとうにため息をつきたいのはこっちだった。そんなのおかしくない?と批判されたとき、わたしからしたらあんただっておかしいよ、と批難したかった。なんでそういうことになるの?と疑問を抱かれたとき、そうやって疑問符を浮かべていればわたしが困って意見を変えると思ったの?と疑問を返してやりたかった。だけどそういう無駄な抵抗を一切やめる能力が身についた。意味がないことはしない。諦観は生きていくうえでの大きな大きな武器だった。それを「同調」「調和」とみなされることにも慣れた。こっちが譲っているのではなく、こっちがすべてを諦めているから調和しているだけなのに。

ほんとうは、いま仲良くしている友達がわたしの価値観に首を傾げているのを知っている。そんなのおかしいよ、と言いたいのを知っている。なんでこっちに合わせられないの、ちょっと我慢するだけじゃん。声には出さないけど、顔に出てる。瞳に映ってる。だけどそんなの、わたしには関係のないことだと思うしかない。それを責める資格はわたしにはない。

だから、上から人を見下すくせがついた。わたしの考えに合わない人や、相互に歩み寄る意志のない人とは仲良くできなくなった。あんたもマジョリティで、わたしを見下すのね、って思うようになった。もう今では仲良くしようとも思わない。ほんとうは、だれとでも打ち解けられて、仲良くできて、友達が多い人がすごくうらやましい。いい意味で他人に期待せず、自分と相手が一緒かどうかを気にしなくても生きていかれる人が。お酒を飲んだら友達になれる人がうらやましい。この先に起こる諍いや意見の不一致について考えなくてもいい人がうらやましい。あるいは、分かり合えない部分があってもなんとか手を合わせてゆるしあい、認めあいながら生きていかれる人が。心底うらやましい。

わたしもいろんなひとといろんな話をしたかった。だけどこっちが歩み寄っているつもりでいても、向こうがこっちの感覚や価値観を見た瞬間、立ち去ってしまうのだからしかたない。そんなのおかしいとか、頭おかしいとか、意味わかんないと切り捨てられてしまうのだからどうにもならない。切り捨てられるくらいならはじめから近寄らないのがいちばんいい。自分のこころを守るにはそれしかなかったと言いきってもいい。社会的偏見に晒されたことのない人間と語る意味はないと牽制するしかなくなってしまった。ひとのせいにしてはいけないと思うけど、これはだれかひとりのせいじゃなくて、歩み寄って手を取らなかったわたしのせいで、そしてそういう構造を作った社会のせいだ。

 

ある日、高校生だった頃、弟が興奮気味にわたしのところに来て「すごい子がいるから見て」と携帯の画像を見せてきたのが、センターに抜擢されたばかりの平手友梨奈さんだった。わたしより4歳も年下で、社会風刺的な歌詞を歌い上げ、言葉では伝えきれない何かを表現するように踊り狂う天才。わたしはあの子の目が好きだった。拒絶しているのに歩み寄ってほしい。そばにいてほしいのに触れないでほしい。回避型、あるいはアンビバレント型の愛着形成だ、と思った。

「黒い羊」のPVが配信されたとき、わたしは最寄りの駅のタリーズでブラッドオレンジジュースを飲んでいた。正直な話、きれいな顔で生まれて、きっといろんな人に囲まれて生きてきたのだろう女の子たちの感性をわかる気がしないからアイドルとかはそんなにわからないのだけど、彼岸花をもつその光景と歌詞に、今までのいろんなことがすべて腑に落ちてしまって、こころの奥とかいろんな部分が重たくなった。

脱退と聞いて、よかったね、と思った人間はわたしだけではないと信じたい。あのうつくしい羊の毛はあまりにも黒かった。それを背負って集団の中で生きていくには、まだ若くて、諦観が完成していないような気がする。好きで黒く生まれたわけじゃないのに、と思ってしまうというのは、人生においてすごく悲しいことだから。期待してしまうのはとても美しいことで、同時に、ものすごく哀しいことだから。

活躍している姿をすごく応援していたわけでもないし、CDを買ったことも、握手をしたことも、だれかにこの人が好きだと言ったこともないけれど、生きていてくれてうれしいといつも思っていた。だから、どこを見ても彼女の姿を探せなくなってしまうのは、単純に寂しい。でも、白だらけの世界から、すこしでも逃げ出せてよかった、と思う。白がないあの子のパレットで、自分の真っ黒を、これからたくさん塗り直していってほしい。いつか黒に何色を混ぜても黒なのだということを知っても、それでも生きてほしい。生きて。こんな人間の書いたこんな記事なんて届かないだろうけれど、ただ、生きていてほしい。

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なんだか疲れてしまった。ほんとうに。疲れた。いろんな感情、いろんな感性が一気に大きく膨張して、それがいつの間にか知らないあいだに割れてしまったような。何も知りたくないし、何も見たくない。耳から入れる聴き慣れた音楽と、やらなければならないことだけを機械的にこなしていたい。いまはすきなものにさえ情緒を動かされたくない。自分を責めたくない。ここじゃないところに帰りたい。ずっと奥深く、どうでもいい深い深い蒼くきれいな海の底で、しばらく目覚めない久遠の眠りにつきたい。電車の中でずっとねむって、回送列車に乗って車庫でねむりたい。自分の怠惰な感性の深くから揺さぶられたくない。生理前のただの抑うつで、簡単にかえってこられるのかもしれない。でもわからない。あなたがすきです。すきでした。そういう言葉だけでは飾れないきもちにずっと揺さぶられていて、どこにも行けない気がしてしまった。粘着質。こんなわたしをゆるしてほしい。だれにゆるしてほしいのか、わからないけど。ごめんなさい