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そんじゃここまでだ、さよなら

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突然も突然すぎるが、わたしはクリスチャン(キリスト教徒)だ。学校の課題で中学1年の終わりころから教会に通い始め、課題がなくなってからも教会に通い、高校3年の10月に洗礼を受けた。ちなみに、ジョンとかマリアとか、洗礼ネームと呼ばれるものは存在しない。一度めちゃくちゃ大きいお風呂みたいな水槽にざぶんと頭から沈められてお祈りして終わり。肌寒い日だったのにめちゃくちゃ水が冷たくて殺す気かと思った記憶しかない。

クリスチャンといっても、ガチガチにキリスト教徒なのかと聞かれるとそうでもない。先述の通りもともと何かに熱中したり何かを心から大切に思ったりするということが苦手なので、たぶん一生かけても信心深い敬虔な教徒になることはない。ふだんから祈ったりしないし、神様ありがとうと思ったりもしない。週に1日、日曜日に(こころと体力に余裕があるときに)教会に行って、2時間くらいの礼拝に出席する。イエス様がわたしのために十字架にかかってくださったからうんぬんかんぬんということは、もちろん理解はしているが普段考えたりもしない。教会に通っているということ以外は、クリスチャンでない日本人と変わらない。家にある祖父母の仏壇に毎日手を合わせるし、友達に初詣行こうぜと誘われれば行って普通におみくじも引く。まあ、いわゆるだめなタイプの教徒であることは間違いない。

一度、中高の同期で当時おなじクラスだった同じクリスチャンの女の子と一蘭にラーメンを食べに行った時、運ばれてきたラーメンを前に食前のお祈りをはじめたのを見てビビリ散らかしたことがある。「あれ、食前のお祈りしないの?」と聞かれて「いや、しないなあ」と答えたときのわたしの顔はかなり歪んでいたと思う。鏡がなくてもわかった。信心深いなあ、とか、人目もはばからずえらいなあ、とかじゃなくて、こいつやばいな、という方面で。その子とはそれからも見かけ上は仲良くしてたけど、わりと基本的に引いてた。こちらがクリスチャンなのを良いことにことあるごとに「神様のおかげ」とか「イエス様の教え」とかいうのを乱発されたからだが、言うまでもなくクリスチャンとして正しいとされるのは彼女だ。

かと言って完全に無宗教かと言われるとそんなこともない。限りなくグレーゾーンなクリスチャンである。どの宗教を信じていますか?と言われたらキリスト教と答えるくらいだと思ってもらえればいい。実際、讃美歌はだいたい歌えるし、聖書の順番もイエス・キリストの大体の人生も奇蹟もわかる。理解している。クリスマスはChristmasでキリストの生誕祭を祝うものであるということも信じている。でもそれを人に広めようと思うかどうかはまったく別の問題。

この文章をクリスチャンの方が読んだら「お前なんかクリスチャンじゃねえわ!」とキレてしまわれるかもしれないが、わたしは神様の恵みをいろんな人に知ってほしいなんて思っちゃいない。この現状に信仰者として何ができるかという質問も幾度となくされてきたが、反吐が出る。クリスチャンからすると、ウイルスは目に見える脅威だから神様に祈っていればいつかは解決するものらしい。いや、まったく見えないよ。

わたしは礼拝が好きで教会が好きだからクリスチャンになったのだ。それを他者にどうこうしようという気持ちなんて微塵もない。一緒に信じようなんてもってのほかだ。あなたにも(わたしの信じる)神様からの恵みがありますようになんて欠片も思っちゃいない。そのひとにとっての神様からの恵みがあればいいねとは思うけどね。そもそも信仰なんて個人が抱いてしかるべきものなのだから、他人に「神様を信じなさい」「そうすれば救われます」なんて説いていられないのだ。お好きな神様を信仰すればいい。こう言うことを言っているクリスチャンなんて少数派だが、今後パウロなみにびっくりするような奇蹟にでも出会わない限りこの考えを変えることはないだろう。わたしは不届き者だからきっと天国に入れてもらえない。

 

そんな不届き者クリスチャンのわたしが、高校2年生のときに買った本がこれである。

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どうしてこれを買ったのかは謎だ。高校生の頃のわたしは少し病んでいたのかもしれない。

 

最近かなり時間があるので本棚にある本を読み返している。つい先日これを読み返したので、これについてすこしだけ書いてみようと思う。前提として書いておきたいことは、わたしが不届き者のクリスチャンであるということと、これがかなり歪んだ愛を語ったものがたりであるということだ。歪んでいる自覚がある人はぜひ読んでみて欲しい。歪んでいない人は「へ〜、歪んでいる人って大変なんだね」と上から目線をぶちかましていてください

 

地図には載っていない、小さな南の島の話。その島には教会があり、神父とほんのわずかな人々が暮らしている。その教会の扉は、ほんとうに愛し合うふたりを前にしてのみ開く。ほんとうに愛し合っていればどんな愛でも祝福されるとされており、同性愛者、近親愛者など、世間から批難を浴びてしまうカップルも次々とこの島を訪れる━━

 

このお話をどこかから語ろうとすると全てがネタバレになる気がするので、気になる人は読んでほしい。すこし近親愛要素があるのでそのへんの話が大丈夫な人で、歪んだ愛情が大丈夫な人であれば、という条件付きだけど。たぶんアマゾンとかで買えると思う。これは愛の存在証明と不在証明の話なのだが、切り込めば切り込むほどネタバレに近づいてしまう気がする。

 

教会が出てくる話なので当然キリスト教的な内容も出てくる。神様がどうとかイエス様がどうとか。中でも神が1で、イエス・キリストが2であるというお話がいちばんわかりやすくて好きだった。

なんでもいいので好きな数字を思い浮かべてほしい。どんな数字を選んだとしても、この世のすべての数字の約数には必ず1があり、他のどの数字(約数)に裏切られても必ず1(神様)が付いているという理論だ。自分が67だったとしても、その中に必ず神さまがついているよという話。それを信じるとか信じないとかではなく、単純にすごくわかりやすいなと思った。

イエス・キリストが最期まで寄り添うことができるのは数字の中でも偶数(2で割れる)もの(=自分の存在を信じている人たち)だけかもしれないが、父なる神は信じる・信じないに関係なくすべての人間の中にいてくれているというキリスト教的な理論だ。単純に、なるほどな、と思った。その理論で言えば圧倒的にわたしは奇数の中にいるんだろうな。たぶん13だと思う。特別な理由はない。

 

難しい話も多々あるが端的に言えば、これは愛し合っているふたりが教会のドアを開けるお話だ。どういうふたりがどういう経緯でこの島を訪れたのか、そしてその教会のドアが開くのかどうかということについては、ぜひ一度読んでみてほしい。何度も言うがわたしは不届き者のクリスチャンなのでこれを読むことでキリスト教について関心を持ってもらいたいということでは全くない。ただ単に、愛の存在証明あるいは不在証明についての歪んだ認知を読んでみていただきたいだけだ。そしていかにキリスト教というものについて簡単なわかりやすいたとえで述べているか、ぜひ読んでみていただきたい。

何度も言うがわたしは伝道というものに興味のない不届き者のクリスチャンだ。全ての造り主である神の前に、果たしてだれか不届き者なのかはわからないけれど。