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そんじゃここまでだ、さよなら

section-10

なみにこれは雑記という名の自己開示です

 

感情のカテゴリー化ができない

もう、いっそのことこれを障害だとか病気だとか言ってほしいくらい。感情を細分化してそれぞれの行く先を定めるということができない

 

たとえば、すき、という気持ちに関することでいえば、わたしは愛と名のつくものの区別があまりつかない。家族は別だけど、同性の友人に対しても異性の友人に対しても三四郎に対してもきっとおなじ種類の愛情を抱いていると思う。それがわたしにとって顔がわかる、知っている人で、会うことができる人なら平等にすきだ

聞こえはいい。だれのことも平等にすきってことだし、逆をいえばだれのことも平等にきらいってことになる。もちろん苦手な人もきらいなひともいる。でもそういうことじゃない。つまり、友人に接する態度とほとんど変わらない態度で三四郎と接してしまう。友人と違うのは、彼らが年上の男性であるということ。実際わたしが気軽に出待ちに行ったり、話しかけるときに死ぬほど緊張するということがないのはそういうことだとおもう。敬意がないわけじゃない。彼らのことがだいすきだし、応援している。だけど、その大好きがなんのだいすきなのかよくわからない

初対面の人や慣れない人と顔を見合わせたり会話をしたりすることに対しての緊張感はあるけれど、そこにだれがいようと、打ち解けたり、慣れたりしたらきっと関係なく話せてしまう

 

だめ、よくない

 

高校時代の友人に、みのりちゃんってほんとうはだれにも興味ないんじゃない?あんまり人間関係で悩んだことないでしょ、と言われたことがあって、そのときはそうかも、と思ったんだけど、というか事実たぶんそうなんだけど、きっとそれだけじゃなくて、だれに対してもおなじような愛情を抱いているからそう思われてしまうんだと思う

 

それだけじゃない。家族以外の誰にも対しても同じベクトルで同じような感情を抱くというのは、だれもが恋愛対象であって、だれもが友愛対象であるということだ、だから三四郎のどちらかが結婚するとなったときとか、熱愛報道が出た時とか、すごい落ち込むと思う、1週間は寝込む自信がある。まじでわたしだったらこんなファン嫌だろうな、ごめんなさい

でもそれは普段からなかよくしている友人でもおなじ。彼氏できたんだ〜と言われてももやもやするし、彼女できたんだ〜と言われてももやもやする。好きな人できたんだ〜って言われたら応援できるんだけどな。わたしがいちばんじゃなきゃいやだとかじゃなくて、なんかそうじゃなくて、どっかに行ってしまうような気がする。わたしと繋いでいた手を離して

 

いちど溢れ出したきもちをとめられなくなるのもまたわたしのいけないところだ。去年の1月にあっただいすきなおばあちゃんの告別式で、わたしは最初から最後までだらだら泣いていた。お経を聞いている時も、焼香する時も、棺の蓋を閉める時も、火葬場まで歩く時も、収骨の準備が整うまでのお食事の時も泣いていて親族中に驚かれた。収骨の時も泣いていた。家に帰る車の中でも。家に帰ってお花を仏壇に具える時も。銀行にお金を下ろしに行ったのに、その時も泣いていて恥ずかしかった。でも止まらないから仕方なくずっと泣いていた。眠るまでずっと泣きっぱなしだった。20歳なのに。自分でもなんで泣いているのかわからなかった

 

それを向ける先が正確に理解できていないのに種類だけは無駄に多い自分の感情に振り回されるから、もうだれのこともすきになりたくないのに、三四郎のことをすきになってしまった。後悔しているんじゃなくて、すごくうれしい。しあわせだとおもう。会いに行ったりお話したりお写真を撮って頂いたりサインを頂いたり、前向きになれることがたくさんある。21年間の人生、あまりいいことなかったけど、でも三四郎がすきだというのはわたしの誇り。ありがとう。

幸せだからこそいつか終わるのがこわい。自分のきもちさえちゃんと理解して、ちゃんとどこを向いたらいいのかわかればいいのに。これに名前がついたらいいのに。それともこれはわたしがHSPだからかな?わかんないな

 

だいすきなひとにはいなくなってほしくないよね、わたしもだれかのだいすきなひとであればいいのに

 

夜中だからって好き勝手いいすぎた、ここまで読んでくれた人いるのかな?その人はものすごい善人です、ありがとう、感謝のきもちでいっぱいです