××××××××

そんじゃここまでだ、さよなら

section-17

とは呪いのことなのだろうかと思う

学科の人が自由に使える合同の研究室みたいなものがあって、わたしは最近そこにいることが多いのだけど、いつもだいたい4人くらいで集まっておのおの作業している。わたしを除いたそのうちのふたりはカップルで、もうひとりは女の子。そのカップルが、いつもいちゃついている。キスをしているとかじゃないんだけど、いつも必要以上にくっついてベタベタしている。パーソナルスペース、0。もうひとりの女の子がいないときはそのカップルとわたしだけになるんだけど、基本的に居場所がない。なんとなく申し訳ないし、このうえなく居づらいのでわたしが帰ろうとすると「なんで帰るの?」「帰らないでよ〜」って言ってくる。いや、空気感

わからないんだけど、そういうのってふたりきりのときにするからいいんじゃないの?お互いに集中しすぎてしまうの?まわりが見えなくなったり気をつかえなくなったりするものなの?学食にもいちゃついている人たちはたくさんいる。あ〜あ。そういう光景を見るたびに、愛とは呪いなのかなあ、と思ってしまう。

もしくは、愛とは祈りなのかなあ、とも思うときもある。「恋人つなぎ」という手のつなぎ方があって、そうやって手をにぎりながら歩いているひとたちを見るたびにいつも、愛とは祈りのことなのだろうか、と考えてしまう

f:id:kiminiiii:20190626035135j:image

米津玄師の「サンタマリア」という曲の中には

掌をふたつ重ねたあいだ 一枚の硝子で隔てられていた

ここは面会室  あなたと僕は

消してひとつになりあえないそのままで 話をしている

いま呪いにかけられたままふたりで

いくつも嘘をついて歩いていくのだろうか

という歌詞があって、わたしはこの歌のこの表現がだいすきだ いろんなことを考える

サンタマリア

サンタマリア

  • 米津玄師
  • J-Pop
  • ¥250

もちろんこの歌の解釈はたくさんあって、必ずしもどれかが正解でどれかが間違いだというわけではない。聴く人によってぜんぜん違う解釈があるだろうから、わたしの解釈が必ずしも正しいわけじゃない。でもわたしはこの曲は「本質的にわかりあえない男女」の話をしていると思う

わたしたちはだいたい何らかの方法で恋人(あるいは配偶者)をみつけるけれど、でも性別という呪いのせいでひとつになりあうことができず、わかりあうこともできない。もちろん人間性や価値観の違いもあるだろうけれど、性別も大きな要因としてあると思う。

いつか紺碧の仙人掌が咲いて 一枚の硝子は崩れるだろうさ

信じようじゃないか  どんなあしたでも

重ねた手と手が触れ合うその日を  呪いが解けるのを

愛とは祈りなのかもしれない。仙人掌が咲くのを一緒に待つという祈り。おなじものを信じるという祈り。ガラス越しに手と手を合わせ続けるという祈り。呪いにかけられたまま一緒に嘘をついて歩いていくという祈り。でもそれはきっと同時に呪いでもある。わかりあえない、ひとつになりあえないという呪いを受け入れてそれでも一緒に生きていくしかないというたしかな呪い

 

たとえばほんとうに愛が祈りなら、わたしたちは祈りの中で生きてきたことになるし、たとえばほんとうに愛が呪いなら、わたしたちは呪いの中で生きてきたことになる。タレントや芸人さんにとって、ファンの存在は祈りなのか、それとも呪いなのか、わからなくなる

 

なにがいいたいのかわからない

 

けっきょくわたしたちは愛にすがりついて生きているのかもしれない。たとえばそれが祈るようなものでも、呪うようなものでも。ガラスを崩す仙人掌が咲く日をずっとずっと待っているのかもしれない。わかりあえない呪いをこわしたくて祈るのかもしれない。愛していると言うたびに、愛の言葉を告げるたびにすこしずつ呪いが解けて、ガラスにヒビが入るかもしれない

 

でも、

一緒にいこう あの光の方へ

手をつなごう 意味なんかなくたって

意味がなくても手を繋ぐわたしたちはずっとなにかに祈っているのかもしれない。光を目指すわたしたちはもう愛を知っているのかもしれない。呪いでも、願いでもなく、ただ、祈っているのかも

 

ねむたいのとメランコリックなのとで、何が言いたかったのか途中でわからなくなりました、たぶんすぐに消すか手直ししてあげなおします。ここまで読んでくださった方ありがとう、もしよければあなたの呪いや祈りもおしえてください