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そんじゃここまでだ、さよなら

section-14

きについて書こうと思う

最近、ファンとはなんぞや、すきってなんぞや、という疑問や議題をよく見るので、わたしもちょっと考えてみようかなあと思いました

わたしは研究をする上でも生活をする上でも「◯◯だから好き」じゃなくて「◯◯だけど好き」というのを尊重している。「かっこいいから好き」じゃなくて「かっこ悪いところ多くあるけどすき」の方が本物な気がしませんか?

 

そもそもファンってなんなの?誰かにファンかファンじゃないかなんて言われる筋合いなくない?愛情や憧憬ってだれかに認めてもらうものじゃなくて、さらに言えば見返りを求めるものでもなくて、もっと、究極を言ってしまえば自分ですら自分の愛情や憧憬を認められないかもしれないじゃん。自分が「私はこの人のファンなんだなあ」と思ったらファンだし、「好きだけどファンってほどでもないな」と思ったらファンじゃないんだよ

恋愛でも好きの重さがそれぞれ違っているように、同じ人のファンであってもその重さが違うと思う。だれかの恋愛に意見するのが傲慢なように、だれかの応援の仕方に意見するのも傲慢だと思う。あきらかに迷惑をかけていたり常識外れなことしていなければどんなふうに応援していてもいいじゃん、と思うのだけど

というかそもそもみんな自分以外の人間に興味がありすぎるんだよ。自分以外の人が誰を好きでどんなふうに応援していようがどうでもよくない?分かり合える部分はわかりあって楽しく過ごせばいいと思うし、わかりあえない部分があるなら無視すればいいと思う。自分が好きなんだからよくない?ひとそれぞれ持っている価値観が違うんだから、自分の「好き」が必ずしも正しいと思っちゃいけないんだよ絶対

わたしは重たいけど、根はけっこう冷めている方だと思う。出待ちの時とか、出待ち対応してもらっている人たちを俯瞰してみているような部分があったり(自分も対応していただくんだけどね)めっちゃ好き〜〜〜!ってなっているファンの方々を見て、エネルギッシュだなあ〜と思ったりしている。これはわたしがもともと何事にも「熱中する」ということがないからで、周りが見えなくなるほど何かを好きになったことがないっていう「特性」「人格」「性格」だからだと思う

盲目的にその人のいいところだけを見つけられる人、死ぬほど何かを好きになれる人ってすごいと思うし、そういう人の人生はきっと自分以外の人間の人生も大切にする分、ものすごく厚みのあるものなんだろうなと思う。それはきっと努力をしてもわたしには一生できないことだから、純粋にうらやましい

それから「俯瞰して見る」ということから考えると、割と、出待ち対応をしている側の人たちのことも考える。写真を撮ったりサインを書いたりしている人たちを見ながら、今何を考えているんだろう、何を思っているんだろう、とよく考える。だから自分が対応してもらう時は、目の動き、眉毛の動き、口角の上がり方とか、すごいよく見ている。どんな反応をされるのかな、とかではなくて、単純に、人間の心理として普通に気になる

何人もの人間から手渡しでプレゼントを渡されて、何人もの人間から好きですと言われて、何人もの人間と握手をして写真を撮るということ、自分がそういう人生を生きていかない分、その人がどう思うのか、何を感じているのか、ものすごく興味がある。いっそのこと「可愛い子いねえかな」とかだったらいいなとすら思う

 

どこに住んでいても、何を思っていても、ライブに行っても行かなくても、テレビを見ても見なくても、ラジオを聞いても聞かなくても、好きなら好きなんだからそれでいいじゃん!「好き」って気持ちはポジティブなんだから、もっともっと声に出していこうよ!好きって叫ぼう!

わたしと同じ「好き」を叫んでいる人にはわたしも叫び返すよ、絶対に