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そんじゃここまでだ、さよなら

section-36

突然も突然すぎるが、わたしはクリスチャン(キリスト教徒)だ。学校の課題で中学1年の終わりころから教会に通い始め、課題がなくなってからも教会に通い、高校3年の10月に洗礼を受けた。ちなみに、ジョンとかマリアとか、洗礼ネームと呼ばれるものは存在しない。一度めちゃくちゃ大きいお風呂みたいな水槽にざぶんと頭から沈められてお祈りして終わり。肌寒い日だったのにめちゃくちゃ水が冷たくて殺す気かと思った記憶しかない。

クリスチャンといっても、ガチガチにキリスト教徒なのかと聞かれるとそうでもない。先述の通りもともと何かに熱中したり何かを心から大切に思ったりするということが苦手なので、たぶん一生かけても信心深い敬虔な教徒になることはない。ふだんから祈ったりしないし、神様ありがとうと思ったりもしない。週に1日、日曜日に(こころと体力に余裕があるときに)教会に行って、2時間くらいの礼拝に出席する。イエス様がわたしのために十字架にかかってくださったからうんぬんかんぬんということは、もちろん理解はしているが普段考えたりもしない。教会に通っているということ以外は、クリスチャンでない日本人と変わらない。家にある祖父母の仏壇に毎日手を合わせるし、友達に初詣行こうぜと誘われれば行って普通におみくじも引く。まあ、いわゆるだめなタイプの教徒であることは間違いない。

一度、中高の同期で当時おなじクラスだった同じクリスチャンの女の子と一蘭にラーメンを食べに行った時、運ばれてきたラーメンを前に食前のお祈りをはじめたのを見てビビリ散らかしたことがある。「あれ、食前のお祈りしないの?」と聞かれて「いや、しないなあ」と答えたときのわたしの顔はかなり歪んでいたと思う。鏡がなくてもわかった。信心深いなあ、とか、人目もはばからずえらいなあ、とかじゃなくて、こいつやばいな、という方面で。その子とはそれからも見かけ上は仲良くしてたけど、わりと基本的に引いてた。こちらがクリスチャンなのを良いことにことあるごとに「神様のおかげ」とか「イエス様の教え」とかいうのを乱発されたからだが、言うまでもなくクリスチャンとして正しいとされるのは彼女だ。

かと言って完全に無宗教かと言われるとそんなこともない。限りなくグレーゾーンなクリスチャンである。どの宗教を信じていますか?と言われたらキリスト教と答えるくらいだと思ってもらえればいい。実際、讃美歌はだいたい歌えるし、聖書の順番もイエス・キリストの大体の人生も奇蹟もわかる。理解している。クリスマスはChristmasでキリストの生誕祭を祝うものであるということも信じている。でもそれを人に広めようと思うかどうかはまったく別の問題。

この文章をクリスチャンの方が読んだら「お前なんかクリスチャンじゃねえわ!」とキレてしまわれるかもしれないが、わたしは神様の恵みをいろんな人に知ってほしいなんて思っちゃいない。この現状に信仰者として何ができるかという質問も幾度となくされてきたが、反吐が出る。クリスチャンからすると、ウイルスは目に見える脅威だから神様に祈っていればいつかは解決するものらしい。いや、まったく見えないよ。

わたしは礼拝が好きで教会が好きだからクリスチャンになったのだ。それを他者にどうこうしようという気持ちなんて微塵もない。一緒に信じようなんてもってのほかだ。あなたにも(わたしの信じる)神様からの恵みがありますようになんて欠片も思っちゃいない。そのひとにとっての神様からの恵みがあればいいねとは思うけどね。そもそも信仰なんて個人が抱いてしかるべきものなのだから、他人に「神様を信じなさい」「そうすれば救われます」なんて説いていられないのだ。お好きな神様を信仰すればいい。こう言うことを言っているクリスチャンなんて少数派だが、今後パウロなみにびっくりするような奇蹟にでも出会わない限りこの考えを変えることはないだろう。わたしは不届き者だからきっと天国に入れてもらえない。

 

そんな不届き者クリスチャンのわたしが、高校2年生のときに買った本がこれである。

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どうしてこれを買ったのかは謎だ。高校生の頃のわたしは少し病んでいたのかもしれない。

 

最近かなり時間があるので本棚にある本を読み返している。つい先日これを読み返したので、これについてすこしだけ書いてみようと思う。前提として書いておきたいことは、わたしが不届き者のクリスチャンであるということと、これがかなり歪んだ愛を語ったものがたりであるということだ。歪んでいる自覚がある人はぜひ読んでみて欲しい。歪んでいない人は「へ〜、歪んでいる人って大変なんだね」と上から目線をぶちかましていてください

 

地図には載っていない、小さな南の島の話。その島には教会があり、神父とほんのわずかな人々が暮らしている。その教会の扉は、ほんとうに愛し合うふたりを前にしてのみ開く。ほんとうに愛し合っていればどんな愛でも祝福されるとされており、同性愛者、近親愛者など、世間から批難を浴びてしまうカップルも次々とこの島を訪れる━━

 

このお話をどこかから語ろうとすると全てがネタバレになる気がするので、気になる人は読んでほしい。すこし近親愛要素があるのでそのへんの話が大丈夫な人で、歪んだ愛情が大丈夫な人であれば、という条件付きだけど。たぶんアマゾンとかで買えると思う。これは愛の存在証明と不在証明の話なのだが、切り込めば切り込むほどネタバレに近づいてしまう気がする。

 

教会が出てくる話なので当然キリスト教的な内容も出てくる。神様がどうとかイエス様がどうとか。中でも神が1で、イエス・キリストが2であるというお話がいちばんわかりやすくて好きだった。

なんでもいいので好きな数字を思い浮かべてほしい。どんな数字を選んだとしても、この世のすべての数字の約数には必ず1があり、他のどの数字(約数)に裏切られても必ず1(神様)が付いているという理論だ。自分が67だったとしても、その中に必ず神さまがついているよという話。それを信じるとか信じないとかではなく、単純にすごくわかりやすいなと思った。

イエス・キリストが最期まで寄り添うことができるのは数字の中でも偶数(2で割れる)もの(=自分の存在を信じている人たち)だけかもしれないが、父なる神は信じる・信じないに関係なくすべての人間の中にいてくれているというキリスト教的な理論だ。単純に、なるほどな、と思った。その理論で言えば圧倒的にわたしは奇数の中にいるんだろうな。たぶん13だと思う。特別な理由はない。

 

難しい話も多々あるが端的に言えば、これは愛し合っているふたりが教会のドアを開けるお話だ。どういうふたりがどういう経緯でこの島を訪れたのか、そしてその教会のドアが開くのかどうかということについては、ぜひ一度読んでみてほしい。何度も言うがわたしは不届き者のクリスチャンなのでこれを読むことでキリスト教について関心を持ってもらいたいということでは全くない。ただ単に、愛の存在証明あるいは不在証明についての歪んだ認知を読んでみていただきたいだけだ。そしていかにキリスト教というものについて簡単なわかりやすいたとえで述べているか、ぜひ読んでみていただきたい。

何度も言うがわたしは伝道というものに興味のない不届き者のクリスチャンだ。全ての造り主である神の前に、果たしてだれか不届き者なのかはわからないけれど。

section-35

すきとか、きらいとか、よくわからない。だけどあなたがいない世界線より、あなたがいる世界線にいたいなと思う。まったくの他人で、わたしの人生には何ひとつ関係のないことにいちいち感情を乱されている自分がいることに気付かされるから、ほんとうは出会いたくなかったけど、今見えているものぜんぶ、出会えてうれしいなと思う

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今自分が考えていることや、自分の中にくすぶっている気持ちをあらわす言葉がなにもない。たぶん世界中を探せばあるのだろうけれど、わたしの拙い言葉と足りない語彙力では言い表せないのだと思う。ぜんぶ知られたくないけど

無理やり表現するのならば、わたしはいつも人間という生物から隔離されているような気がしていて、そういう離人感みたいなものが相手にどんな感情を抱いたときであってもわたしの邪魔をしているということ。ガラスに隔てられているから、手を繋げない。体温はわかるのに、指の感触はわからない。ガラス越しに手と手をあわせることはできるのに、手をつなぐことはできない。もしかしたら、だれの手でも同じなのかもしれない。それが人間でさえあれば

この離人感はいつもわたしにつきまとっている。家族に対してでさえもそう思うのだから、他人に対するガラスがどれだけ分厚いかなんていちいち表現していられない。そのくせ、自分にとってとても重要なことが相手にとってさほど重要じゃないんだろうと想像するだけで気が狂いそうになる。わたしにとって全ての祈りを捧げるほど大切で必要なひとやものが、相手方にとってもそうであるわけではないということ。そういうのを乗り越えて生きている人間たちをガラスに挟まれたはるか遠く離れたところで見ながら、結局はわたしがいちばん人間で、人間に対する執着心が恐ろしいのだ。

 

ガラスを隔てた先にいる人間のこと、大切に思うなよ

 

わたしの思っている「大切」って、どんななんだろう。だれかを大切に思うことがあまりにも少なすぎて、うまく言葉にならない。ただ、わたしが抱え込んだ感情に口出ししてくるわたしの数が多くなる。「そんなの無意味じゃん」「あんたごときがそんな気持ちでいていいわけないでしょ」「中途半端に期待するとろくなことにならないの自分がいちばん知ってるくせに」それに対してうるせーわたしの勝手だろって言えるほどわたしはいい子じゃない。わたしの本体はわたしの感情なのかもしれない。

 

あなたのいやなことぜんぶ殴りたい。いちど手をつないだら二度と離せない。あなたの横顔を見て引け目を感じてしまう。もうどこへも行けないような気がする。わたしはここで終わりだ

 

ずっと、心の奥で何かを叫んでいる。必死に聞こえないふりをしているわたしもまたわたしの一部だ。ほんとうは、ほんとうはなんて言っているのかぜんぶ知っている。震えを噛み殺している。だけど、それを知りながら、それでもわたしはわたしを遠くから見ている。鼻で笑っている。具現化した感情を振り回しているわたしもいる。何が正しいのかわからない。ずっとわからない。

ほんとうにわからない?わからないふりをしているのかもしれない。わたしのきもちじゃない。どこから来たのかもわからない。この意味のわからないきもちから救われたい

 

ガラス越しでいいから笑ってほしい。あなたのいやなことはぜんぶわたしに預けてほしい。わたしの知らないところで、あなたの人生を動かさないで

 

ああ、これが愛情だったらどうしよう。

 

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section-34

ようやく病院に行く時間がとれたので、喘息の薬をもらってきた。今、胸に貼っている薬のおかげで気管支が広げられていて、すごく呼吸が楽だ。飲み薬のおかげで咳もすこし治まっている。ついでにさっきお風呂でアホみたいに大きな声でいろんな歌をうたってきたので、わたしの心は万人に開かれていると言っていい。全開。めっちゃ換気されている。そんなフィーバー状態でこの記事を書いている。したがって今から書くこの記事は最低最悪な言葉の羅列かもしれない。この記事を開いてここまで読んでくださっているのはとてもありがたいしうれしいのだけど、ここから先は自己責任でお願いしたい。お願いします。嫌なひとはそっとブラウザを閉じて、なにごともなかったかのように手洗いうがいをしてね。そしてこの先も読んでくださる方は、わたしが今から書くことについて、他人の人生の破片を見ただけの薄っぺらい人間があーだこーだ言っているだけなんだ、ばかだなあと思ってほしい。お願いします

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日曜の深夜に番組を見終わってから、いろんなひとのいろんなツイートを見た。いろんなひとのいろんな言葉を吸収した。もちろん良いも悪いもぜんぶ読んだ。正直他人がどうやってひとを評価しているかなんてどうだっていいから毎回検索したり調べたりすることはない。だけど今回はこれを見たひとがどんな反応をしているのか見てみようという気になって、(ぜんぶじゃないけど)その日の深夜3時頃までにツイートされていたものはたぶんほとんど見た。だけどそれは「批判されてる!やだ!許せない!」とか「こんなに好意的に受け止めてくれてる人がいる!やっほう」とかじゃなくて、他人が他人の人生をどんな角度で受け止めているのかを知りたかったからだ。顔見知りでもない他人の人生の破片を取りあげてこんなふうに言うのは自分でもどうかと思うが、そういう「ひとつの人生を見た」あとの人間の感想を読んでいくのがすごく楽しかった。

その中に小宮さんとその人生のことをボロクソ言っているツイートがあって、それを見つけた時はまあちょっとさすがに「は?」と思わざるをえなかった。小宮さんが批判されたからとか、ひどいことを言われているからとかじゃなくて、他人が経験したものとまったく同じ痛みを経験することなど完全に不可能であるということを忘れているひとがまだ蔓延っているのかと思ったから。愚かすぎる。

自分以外のだれかの痛みを完全に理解することなんて不可能だ。似たようなことを経験したからといって完全に全部わかったわけではないということを忘れている。たとえ理解できているように思えても、それは自分の経験した痛みを反芻して、照らし合わせたうえで(勝手に)想像しているだけに過ぎない。自分の中にカテゴライズされていない知らない痛みであるというだけで当たり前のように批判するな。他人の人生の重みや痛みや苦労をバカにするひとは、自分の人生経験の薄さや痛みへの鈍感さ、共感性の低さをすべて露呈しているのと同じだということを自覚したほうがいい。あと、批判するなら本人の目につかないように批判してほしい。だれに対しても悪口を面と向かって言えないなら、顔を隠しながら言う資格なんてひとつもない。陰口を言うな、ださいから。人間だれしも自分以外のだれかの人生にとっては「部外者」なんだから

とまあ批判と文句はここらにしてちょっとだけわたしも他人の人生を語りたい

記者の人が「お母さんが亡くなったときはショックでしたか」という質問をしていたとき、そういう固定概念に嵌らずに生きてきたせいで苦しかったこと、きっとあっただろうなと思った。一般的には親の死というのは発達段階の中でも重要なできごととして捉えられていると思う。だけどもちろんその枠の中に当てはまらないひとだっているわけで、小宮さんもきっとそうだった。親が死んでも寂しくない、悲しくないというのは、決して小宮さんが冷たいからでも、愛がないからでもない。もともと母親という存在が愛着対象ではないひとには難しいのだ。肉親が亡くなったのだから悲しいのは当たり前だ、さあ悲しめという風潮があったことを呪うべきだと思う。「親が死んだら悲しいものだ」という世間が作り上げた固定観念みたいなものに苦しめられたことが少なからずあるんだろうなと思う。わたしの勝手な憶測、推測、予想、想定でしかないけど。

あとこれは、心理学をたった4年かじっただけの人間(しかも大学院受験に落ちている!カス!)が簡単に言及してはいけないことなのかもしれないけれど、小宮さんって母親との関係があまり良くなかったから女遊びをするのかなと思った。若いころに母親を亡くしているというのは大きい気がする。母親を求めているとか母性がどうのこうのとかそういうんじゃなくて、ただ、自分を認めてくれる女のひとの存在がほしいのかなっていう。純粋に性欲が強いんだろうと言われたらそれもそうなんだけど、女性不信(本人談)なのになんで女のひととたくさん遊ぶの?と考えたときに、それはそれで一種の反動形成なのかな?と思った。女のひとが苦手だ、女のひとが怖いという感情と反対のことをすることで心の均衡を保つみたいな。ある意味、一種の復讐みたいでいいよね、わたしそういうの嫌いじゃない(うるさい)(散れ)

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ときどき近くで顔を見たとき、1対1になったとき(出待ちとかで)、決まって瞳が揺れているのが印象的なひとだと思っていて、それって何をあらわしているんだろうなとずっと考えていたけれど、相手方に自分に対する敵意があるかどうかなのかもしれないな、と番組を見て思った。悲しい、痛い経験をたくさんしたひとは自分の手の届かないところで人格形成を強制的に歪められているので、他人を見る目も多少なりとも歪んでしまっているのだろうな、と。でも小宮さんは性悪説に傾き切ることができなかった感じ。というよりめちゃくちゃ性善説を信じている気がする。なのに他人から向けられるのは悪意や敵意だから、人間不信にもなるよな。だから性善説のかたまりみたいな相田さんのそばにいるのかなと思ってしまった。今、あなたの味方はたくさんいるのにね

もしわたしが普通にともだちとして小宮さんに出会って、めちゃくちゃがんばって打ち解けて、いつかインタビューで話していたようなことを聞かせてもらうときが来たとしたら、例えばその場所が居酒屋でも、おしゃれなバーでも、カラオケでも、ファミレスでも、夜の公園でも、東京タワーの展望台でも、南極でも、どこかのホテルの一室でも、たったひとこと、おまえよく生きてきたな、って言っただろうと思う。きれいに咲こうとしていただけなのに何度も踏まれた花みたいだ。やっとの思いで枝から離れて舞い落ちただけなのに簡単に握りつぶされた桜みたいだ。だけど花ってまた咲くし、桜も春が来ればまた咲く。何事もなかったかのように舞う。それに似ている

ずっと思っていることだけど、小宮さんって全然ひねくれていない。むしろ、他人から与えられた言葉や表現をまっすぐ受け止めすぎるからその中にある矛盾とか嘘とか理不尽を無視できなくて、だれもが気にしないようにしている部分とか見ないように目を背けている部分とかをズバッと言い当ててしまうんじゃないかと思う。真っ白なものを真っ白なままで返しているから、なんか色をつけろよって言われちゃうんだろうな。本来ならそれが普通なのに、大人の生きている社会では真っ白なものを少し汚したり自分の色をつけたりして相手にパスするのが普通だから、それをせずに真っ白なまま返してくるなんてみんなと違うね、ってなってしまうんだと思う。まだ大人3年目だけど

ちゃんと生きていこうとする人間をなんとかして摘もうとする人間なんて死ぬほどいる。生き方に正解がないのも、死に方に正解がないのも、ぜんぶ。女めっちゃ抱いててキモいとか、人に優劣つけててありえないとか、あんたに関係なくね?わたしも女たくさん抱いてる男めっちゃ嫌いだし、地位を気にして生きたこととかないけど、関係ないじゃん、だって小宮さんの人生ってわたしの人生じゃないんだもん。絶対交わらない世界線にある人生なんだし、本人が幸せに生きているんなら別になんでもよくね?クズでも良くね?えらそうにこれ書いてるわたしもクズだし。少なくとも簡単にひとの人生を批判できちゃうあなたには関係のないことだよ、そんなに怒らないで。安心して。

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感情のままに書いたから読み返したくない。絶対に読み返さない。そして他人の痛みを勝手に推測して勝手にいいように書いているのはわたしの方ですすみませんごめんなさい。

自分以外のだれかの痛みを完全に理解することなんて不可能だ。似たようなことを経験したからといって完全にわかったわけではないということを忘れている。たとえ理解できたように思えても、それは自分の経験した痛みを反芻して照らし合わせて想像しているだけに過ぎない。

自分で書いた言葉なのに、盛大な前フリみたいになってしまった。でかめのブーメランを投げてしまった。ごめんなさい。全然ゆるさなくていいのでここまで読んでくださった方はこれからの人生ずっと笑っていてください。

自意識過剰にもほどがあって埋まってほしいんだけどご本人様がこれを読んでいたらと思うと、……まあいいかという気持ちです。

自分を含めてひとの気持ちに永遠なんて存在しないのでずっと味方でいる保証なんてないけれど、でも今のところわたしと、わたしのツイートを読んでくださっている方々はあなたの味方です!味方というと大げさだけど、生きていてくれてうれしい。あなたにとって捨てたもんじゃなかったあなたの人生のおかげで、わたしのこのクソみたいな人生も捨てたもんじゃないものになろうとしています。ありがとう。ありがとう。ありがとうございます。だからこれからもたくさん幸せって言って!(キモ)

section-33

3月25日、無事に大学を卒業した。今年は新型コロナウイルスの影響で卒業式ができず、学位をもらいに指定された教室に出向いて、学科の友人たちと最後のお別れをするという特殊な最後を迎えた。

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当日指定された教室に行くと、女の子たちはみんな色とりどりの袴を着ていて、どの子もみんなとてもきれいだった。学位を受け取ってからも教室にとどまっていたら、写真を撮ろうと声をかけてくれた女の子たちが何人かいて、一緒に写真を撮ってもらった。そして4年間を一緒に過ごした男の子たちにはリンツのチョコをいただいたが、わたしがもらったのにほとんどみんなに食べられた。

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4年前、入学式の次の日から体調を崩してオリエンテーションを休んだおかげで、女の子たちのグループに入れないまま大学生活がスタートした。中高6年間を女子校で過ごしたくせに女の子との距離の詰め方がわからず、4年間のほとんどを学科の数少ない男の子たち(心理学科は女子が8割、男子が2割)と過ごした。大学に入ってはじめに驚いたことは、女の子たちが当たり前に「トイレ行こう〜」といわゆる連れションをしていることと、その連れションに男の子も同伴させていたことである。そもそも連れションという文化が存在しない中高時代を過ごしてきたわたしは「ほんとにあるんだ……」と都市伝説を目の当たりにしたようなきもちになった。

女子校時代の友だちに話しかけるように男友達とふつうに話していただけなのに、よくわからない噂を立てられて、最初の2年間はかなり学科の女の子たちに嫌われていた。目の前で「男好きらしい」とか「めちゃくちゃ遊んでる」とかヒソヒソ悪口を言われたことも何度かある。それはすべて事実と異なっていたのであんまり気にせず気にも病まずにいたのだが、女の子たちからすればそんな悪口を目の前で言われながら普段通りに過ごしていたわたしの態度が気に入らなかったのだろうと思う。でもわたしはほんとうに気にしていなかったのでしかたがない。強いて言うなら、女友達がたくさんいるように男友達がたくさんできたというただそれだけのことをなんで他人からやいやい言われなきゃならないんだと思っていた。わたしのために悪口を言う時間を取ってくれてありがとうとすら思っていたので、わたしはたぶん自分が思う数倍は生意気なのだろう。

2年生が終わるまではわりと男の子たちと過ごしていた。男子4人の中にわたしひとり女子で、5人で食堂に集まってレポートをやったり、ご飯を食べたり、空き時間にカラオケに行ったりして過ごした。幼馴染以外に同年代の男友達がいなかったわたしにとっては、同年代の男の子たちが普段なにを考えて過ごしているのかを知る良い機会だった。「なぜ人は生きているのか」「神の存在はほんとうに人間を救うと思うか」「なぜ自分ひとりでも生きていけるのに他者との繋がりを作ろうとするのか」といったエセ哲学やエセ宗教論を永遠に語りあっていた高校時代の友人とは全く異なり、彼らは常に学科のだれちゃんが可愛いだの、だれとだれが付き合っているだの、彼女への誕生日プレゼントが決まらないだの、近くで風船が割れた瞬間にどうでも良くなるような話題ばかりを振り続けてきていたが、それはそれで次の日に何も覚えていないほど中身が薄くて楽しかった

3年になり、就職希望の友達4人と院志望のわたしはとる授業が違ってたりして一緒にいないことが増えていった。たいていそういうときはひとりで授業を受けていたのだが、学科の授業の時に恐る恐る話しかけてきてくれた女の子と普通に話していたら「みのりちゃんってすごい優しいし普通なんだね、今まですごく怖くてチャラい子なんだと思ってた」と謝られた。さほど人見知りもせず性別に区別があまりないのでだれと話す時もわりと自然体でいるつもりだったのだが、そうかわたしは怖いイメージをもたれやすいんだなと思った。そのほかにも「みのりちゃんって笑うんだね」「思っていたよりも普通だね」「男の子より紳士的だね」などなど、ツッコミどころ満載な言葉を投げかけられたりもした。だんだん学科の女の子たちとの意味のわからない確執はなくなっていき、授業や学科の合同研究室内で会えばだれとでも挨拶を交わせるようになった。

卒論を書き始めてからは同じく卒論を書いている子たち(4年次の卒論執筆は任意)と仲良くさせてもらい、みんなでパソコンを囲みながらあーだこーだと討論をして書き上げることができた。途中で嫌になって横浜にドライブしたり、カフェでじゃんけんして負けた人が全額払ったり、もういやだ〜と発狂しかけてすべてを投げ出して飲みに行ったり。大学4年生の卒論の執筆は、正直かなりきついものがあったけれど、友人がいてくれたからできたと言える気がする。ほんとうにありがとう。これ読んでる?絶対読んでないだろうな

いつの時代もそうだけれど、振り返ってみるとそのほとんどがいい思い出になっている。経済的な事情で仕方なく入った大学だったけれど、その場所で与えられた出会いによっていろんなことを経験して、高校三年生だったころよりも成長できたという実感がある。

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学位をもらったあとは4年になってから仲良くなった超美人な女の子(学科の同期)と飲みに行って、目黒川沿いの桜を見た。友達は合流した時点でべろべろに酔っていて、もう学校でみのりに会えないの寂しすぎる〜と言いながら大号泣していた。人目もはばからず大泣きする彼女の手を握って恵比寿の街を歩いたこと、たぶん一生忘れないと思う。恥ずかしかったな〜

4月からは半社会人、半就活生になる予定でいる。大学院入試に落ちてしまったわたしを、1年生のときからお世話になっているバイト先の方々が救いあげてくださった。さらにありがたいことにそれだけでなく、就活しなくてもうちに就職してくれたらうれしいとまで言ってくださっている。ありがとうございます。どんなものであれ信頼されるというのはうれしいこと。

春からは塾講師と学童のお姉さんと事務をやる予定です。今までと変わらずライブに行けるといいなあ。

これからもつらつら思ったことや考えたことを深夜テンションで勢いのまま書いていけたらなと思っていますので、みなさま今後ともよろしくお願いいたします。

section-32

自分が、自分の感情が、自分のもっている感覚のすべてが、なにをもって満足したと言えるのかわからなくて、ずっと胸の奥に炎とも呼べない小さな灯火がくすぶり続けている。いくら息を吹きかけても消えない。わたしはロウソクになったのかもしれない

月から隠れて眠ろうとする街並みを歩いても満たされない感情をどうやりすごしたらいいのかわからなくて、暗くなっていくだけの廃棄みたいな街をただあてもなく歩き歩いて熱いのをごまかす。置いていかれるのがわたしなのか、置いていくのがわたしなのかわからないまま、嘲笑うみたいに痛み出す足の裏、街灯ばかりでまぶしくて閉じた瞳、いつの間にか下手になっていた呼吸がつめたい肺の奥を突き刺す。上手く言語化されないまま内部にこもって暴れまわるだけの熱を、もう痛みを痛みとすら感知してくれなくなったいのちを、どうしてもうまく愛せない。わたしは存在意義を問いかけるだけのただの箱になった

なにも残せなくなってしまった。壊れたカメラみたいに。あたまのなかになにも残せなくなってしまった。ぜんぶその場限り。瞬間を切り取る以外のことはできなくなってしまった。その瞬間の美しさや儚さみたいなものを握りつぶすことだけが生きがいになってしまった。同じだけの熱量を維持して生きていくことが不可能になり、わたしは壊れたカメラの、壊れたレンズの欠けた破片になった。

終着駅はどこだっけ。来る日も来る日も山手線に飛び乗っては、何周も何周もねむりながら、終着駅がないことを何度も嘆いている。円環的な人間関係はいつかバラバラになって、穏やかな円だったはずのそれは鋭い三角形になる。どこに目をやっても鋭くとがっているそのかたちが苦しい

部屋の明かりを見上げているだけでしんどくなってしまった。世界でいちばんどうでもいい胸の痛みを抱えて呪いにかかったみたいに街灯の少ない道を歩いている。人通りはほとんどない。死に絶えたように静かな、凪みたいな世界。正しさはいつだってわたしを殺す。単純な理論は複雑な心の奥をぶち壊す。清潔な空気に汚される。優しい言葉に殴られる。やわらかい生地にじわりと刺されていくように。除菌されたみたいなきもちになる。美しさはわたしを正面から殴る。どうせなら砂糖に溶かすように甘やかしてほしい。それが無理ならいっそ切り刻んでくれ。

左手の中指の爪が欠けてしまったのにその後ろにはもう新しく生成された爪が待っていて、そういうことにほんとうに恐怖を感じる。本来わたしの本体であるはずの意思や感情を無視して、なにごともなかったかのようにふつうに生きていこうとする身体の機能がおそろしい。生きていたいなんてひとことも言っていないのに。今日まで生きてきたことを上書きして新たな人間として生きていきたい、わたしはいつまでわたしとして存在していればいいの

なにも生み出せなかった空っぽな頭を壁に打ち付けて中身をさらに空っぽにしている。「生きていく」ということだけに焦点を当てていたい。ちゃんと生きる、まっすぐ生きる、まっとうに生きる、という枕詞に、人生の首を絞められている

わたしとまったく同じ思考で同じ言葉を紡ぐ人がいたらどうしよう。そう考えたら嫉妬も憎悪も嫌悪も憤怒もなにひとついらなくなんてないな。ほんの小さな期待からうまれる大きな呼吸の歪みをゆるしてほしい。情緒が安定しないのをだれかのせいにしてしまいたい。負の感情に突き動かされて使いものにならなくなった呼吸を招き入れてくれる空っぽなからだを探している。

 

ねえ、ところで、世界の終わりはまだ?

section-31

最悪になってしまった。いやもともと最悪だろと言われたら何も言えないのでもうそれまでなんだけれども、わたしは最悪になってしまった。最近ものすごい速度で春が世界を包みこもうとしている。肌や髪に触れる春があまりにも濃すぎる。もうすぐ桜が咲きそうだなんて報道されていて哀しい。ずっと桜が咲くのを待っていたい。楽しみにしていたものが終わっていくのがこわい。卒業旅行も、友人とのご飯の予定も、ぜんぶ終わってしまった。今のわたしはただ春の微睡みに落ちるだけのダメ人間でしかない

最近はほんとうにたくさん眠っている。10時間睡眠のあとに2時間ひるねして、どこか出かけるときの移動時間もほとんど眠っている。夢を見ることもほぼないから、ほんとうにただたくさんねむっているだけの人間になっている。まぶたの裏側の世界には何も映らない

 

いろんなものを取りこぼしているなと感じる。愛とか恋とか生殖とか、そういう人間の生存に関わる大きなものから、わたしが人間であるということを証明する人間らしさを縁取る輪郭まで、いろんなものを。取りこぼしているからといって戻って拾ったりはしないけれど、いつも曲がり角で見つけてしまう。取りこぼした愛も、言葉も、痛みも、ぜんぶ

もともと持っている言葉が少なすぎるので、言いたいことをしっかり表現できなくていつももどかしいきもちでいる。楽しいときに楽しいことをきちんと伝えられる言葉ならいくらでもあるのに、哀しいときにその哀しさが何色なのか伝えきれない。海の青と空の青が違うのと同じように、哀しいという当たり前の感情にもただの青だけじゃなくていろんな色がある気がするのに、いつもその色の名前がわからない

だれかのうみだした荒波に飲まれて沈まないようにとしがみついていたものは簡単に折れてしまいそうなほど脆い自己概念だった。意味のないものにとらわれすぎて意味のあるものをないがしろにしている。日常に花を添えたすぎて日々を丁寧に生きることに決めたけれど、そうしたら自分の中の善悪の基準が粗雑になって、わたしの日々の限界はこんなもんかって途方に暮れている

 

そういえば卒業旅行は伊勢神宮に行った。大学の同期3人と一緒に行ったのだけど、その中に、過去ちょっとだけ好きだった子(ほんとうは恋愛感情とかではなくて憧れに似た類いのきもちだった)がいて、哀愁ってひょっとしてこれのことなんだろうかと思った。これはきっと夕暮れ時の空の色と同じ青に近い哀しみだったと思う。その子のことを好きだった当時は顔を見て話せない、目を見られない、名前を呼べないのフルコンボだった。でも旅行からの帰り、渋谷でレンタカーを返してから30分ほど隣の席で同じ電車に揺られて帰る途中、ものすごく楽しくお話できてしまって、かみさまはいるのかもしれないと思った。このひととの縁を切らずにい続けることができてよかったなとほんとうに思った。ずっとうまく吸えなかった酸素をようやく取り入れることができたみたいな感じだった。卒業したらもう二度と会わないという確証があるけれど、でも、やっとともだちになれた気がした

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死ぬほど女々しい幻想に足を絡め取られて前に進めない。それはわたしが今まで否定してきた本能や感情と密接につながったものであるから、わたしはわたしをゆるせない。いちばんしたくなかった生き方そのものを具現化したような人間性がすぐそばまで迫ってきている。それは日常の意味のわからない場面でやってきて、わたしのいろんな機能をリセットさせる。すべてを無に帰してしまう。馬鹿みたいに素直に揺さぶられた自分自身の情緒がいままで生きてきた自分のアイデンティティのすべてを滅ぼそうとする

だれかのために無責任に祈らないということだけを頼りに生きてきてしまったせいで、だれかのために何かをしたり、自分のために何かをしたりすることが極端に苦手になってしまった。だれのためにもならない、何の意味もなさない大陸の上で、そこにいるかもわからない、存在するかもわからないかみさまのために祈っているのかもしれない。自分の未来や将来のために、だれかの感情を揺さぶるために、今を犠牲にできない。幸せに生きてくれと祈る資格も権利もわたしにはない。なにが相手の幸せなのかわからないのに幸せになってほしいなんて言えない。ある人生の裏側にはまただれかの人生があって、そのひとつがハッピーエンドならそのもうひとつの人生はバッドエンドだ

もうだめだ。わたしは最悪になってしまった。最悪だ。最悪なんだ。なにをどのように改善したら最悪じゃなくなるのか教えてほしい。最悪じゃなくなるまではわたしの名前を呼ばないで

section-30

執着心がほしい。考えてみれば今までなにかに執着するということをあまり経験したことがない。なにかのファンである時点でもうそれは執着だろうと言われてしまったらそれで終わりだけど、自分ではあんまり執着していると思っていない。何の変哲もないクソみたいな生活をきれいな色で彩っていただいているというだけでわたしのすべてではないし、おなじように彼らのすべてもわたしではないので

永遠なんてないというのは人間にとっての(いつもの)謳い文句で、必ず歌詞とか詩とか小説とかで述べられている昔からの常識みたいなものだと思う。永遠なんてほんとうは存在しないことを知っているから永遠を誓うような歌がたくさん流布されているんだろうな。人間はほんとうは存在しないものにすがりつきたい生きものだから。まあそりゃ好きな人とはおなじ永遠を見ていたいよね。目先のことに不安を抱くより、ずっとずっと大きな永遠を夢みて安心して生きていたいと思うだれだって so

いつか終わるということがどんなに美しいか。どんなに好きなものでも大切なものでも、いつかはかならず終わってしまうということ、終わってしまうからこそ今の美しさが存在しているのだということを、忘れてしまいがちな気がする。いつか消えてしまうということに対する寂しさや悲しさや悔しさが「別れ」や「終わり」ということから人間を遠ざけて、意識すらしなくなる。だって自分だっていつか終わるんだからね。日々生きている時にはそれを忘れている。好きなマンガの連載は必ずいつかは終わってしまうし、ドラマも時期が来たら終わる。好きな人だって、いつかは別れが訪れる。失恋じゃなくたって、ひとはどうせいつか死ぬ

わたしは自分のきもちをいちばん信頼していない。いちばん疑ってかかっていると言ってもいい。熱しやすく冷めやすいわけでもすぐきらいになっちゃうわけでもないんだけど、でも、どうせいつかは好きじゃなくなるからと思って生きている。あーこのひとに対してそういうきもちのときあったなあって思うだけの日がいつか来てしまうということを知っている。いつかそのひとやそのもののひとつひとつに全くこころを動かされなくなる日がくる。それは成長だったり退化だったりいろんな理由があるのだろうけど、そうやってなにかを忘れたり切り捨てたりするのは、生きていくのに必要なんだと思ってる

実は今まで(恋愛的に)ものすごく好きだった人ってひとりもいなくて、だいたいそんな大した執着心も持てないまま終わることが多い気がする。大学生になってまわりがだれかをすきだとかだれとだれが付き合っているだとか騒ぎ立てるからわたしもなんとなく、ってかんじを繰り返してきた。それらがわたしにどんな影響をもたらしたのかは謎だけど、恋愛って良くも悪くも人間の発達に必要なエッセンスなんだろうなあと思った。何個か前の記事(https://kiminiiii.hatenadiary.jp/entry/2019/08/18/044757)で書いた子のこともたぶん当時はふつうに好きだったんだろうけど、いま振り返ると恋愛的な好きじゃなかったなと思う。憧れとかとおんなじだった気がする。ちょっと大人しくて、まわりの子とは違っているように見えただけ。だってべつにその子のことほしくなかったから

ほしいものはひとつだけあるけど、それはわたしの全人生をかけても手に入らないものだということを知っているから、もはやほしいと思う感覚さえも麻痺してきている。絶対に手に入れようとおもう執着心もないから、自分が死ぬまでずっとこのままでいいとさえ思う。それをだれかに話すと「ほんとうにほしいわけじゃないんだね」「ほんとうにほしかったらいろんなもの犠牲にしても手伸ばそうと思わない?」って言われるけど、はいはいどうもって言っていつも流している。その行動をしたことでわたしにはリスクしかないし、意味もない。手に入らないから。それを手に入れたあとのわたしが想像できないし、中途半端に存在している独占欲のせいで、絶対にてのひらで握りつぶして終わりだと思う。だれの手にも渡らないように

 

わざわざ言う必要もないかなあと思ったけど、半年くらいちまちま勉強して挑んだ大学院の試験、みごとに落ちてしまった。まあ普通に努力不足だし、大学院進学に執着していたわけでもないし、もともとバイクで走っている人を裸足で追いかけるくらいの負け確定の試合だったから落胆も悲しみもない。負け惜しみっぽく聞こえるかもしれませんがこれはほんとうにほんとう

2校受けたうち自分の通っている大学の試験(内部進学がないのがいけないということを永遠に主張し続けてやる)に落ちてしまったので親はけっこう残念がっていた。もともとあまり試験に落ちたり悪い点をとったりしたことがなかったので親戚からもわりと「意外!」なんて言葉をいただいたりしている。はい意外でどうも。学校内の範囲が決められたテストを受けているのとはわけが違うのよ、という言葉はひとりごととしてしっかり処理した。わたしってえらすぎ

指定校推薦で今の大学に入ったので、自分の大学以外の大学の試験を受けたのは人生ではじめてだった。めちゃくちゃ方向音痴で地図も読めないダメ人間なので前日にちゃんと下見に行った。程よく郊外にある大学だったのですごく広くてのびのびしていて、なんかいいなあと思った。チャペルもきれいだったし

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でもいざ試験を受けてみたら口頭試問の担当の教授たちの態度が悪すぎてまじで受かってもぜってえ行かねえと思った。いやこっちは選ぶ側じゃないし、というか絶対落ちてるんだけど、なんでああいう態度とるかなあとモヤモヤしながら帰った。ひとの話を聞くときは足を組まずに、まあせめて手を膝の上や机の上に置いてね。わかった?大人でしょ?

というわけで一緒に卒業する同期たちよりも1年遅れて就活をすることになりそう。卒業して2年以内なら新卒でとってくれる会社が多いみたいだから普通に就活して普通に就職して、それでも研究がしてえな〜って思ったら社会人枠で院に行こうかな。そうなる可能性めっちゃ少ないけどね。ちなみに院では「同性愛者の内在化した同性愛嫌悪」について研究しようと思ってました。まあ、ふつうに興味あるから個人的にやってみようかな

 

コロナで揺れる世界。季節性の咳喘息でずっと咳をしているわたしは電車のなかで人権がない。そんなことより、イベントやライブをやるのかやらないのかということで毎日いろんなところが揺れている。正直なことを言うと、わたしはやってもやらなくてもどっちでもいい。すごく楽しみにしていることは確かだけど、やるって判断もやらないって判断も、たくさんの大人がたくさんのことに絡まれて足をとられながらたくさん悩んで決めたことだろうからこっちがあれこれいう資格は絶対にない。ただ楽しませてもらう側のこちらと、めちゃくちゃたくさんのひとを楽しませようと思ってずっと前からいろんなことを考えてくださっている側なんだから、こっちが文句を言ったり愚痴を言ったりするなんてありえないというのがわたしの見解

 

べつにたのしく生きているならそれでいいじゃない。あなたの人生がたった一回であるように相手の人生だって一回だけなんだからさあ〜と思う。高い洋服買ったって旅行いったっていいじゃない。たのしそうでこっちもうれしいじゃない?そうじゃない?だめ?だめですか?わたしは高い洋服買ったり旅行いったりしたときただふつうにうれしいし楽しいけどな〜

リプライで相田さんとかに直接悪口いってたりするひとって相手に自分の顔が見えないからと言って簡単に他者のこと傷つけられちゃうくらいだから人生めちゃくちゃ小せえんだろうな〜と思っちゃう。相手の目をみて言えねえこと文字で言うな。こういうこというとまた痛えファンだって言われるんだよねえ。べつに相手がだれであろうとわたしはこれをずっと主張し続けるよ。究極、どんなにすきであろうと他人の人生なんだから自分の人生を生きているこちらが文句を言う資格なんて微塵もねえだろ

 

は〜余裕ぶって生きてやろ〜っと。余裕ぶりまくっていつかほんとうに余裕が出てきたらいいなと思いながら生きる。ほんとうは就活とか死ぬほどしたくね〜な〜って思ってるし、ここまでクソ適当に生きてきちゃったんだからできることねえしそもそもわたしに向いてる仕事なんてねえよば〜かとか思ってる。う〜わもう電車とかにひと思いに飛び込んでやろうかな〜とか思ってるけど(まあ絶対しないと思うダサいから)ふつうに生きていくしかないんだよね、いつか永遠になるために。絶対に存在しない永遠のために生きないといけないんだよな今日も。あ〜あ。あしたは髪の毛の永遠を断ち切るために髪を切って染めま〜す