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そんじゃここまでだ、さよなら

section-24

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‪たしの、祖母に関するいちばんはじめの記憶は、畳の部屋で化粧台の前に正座をした祖母が、口紅を引いているところだ。上唇と下唇に塗ったあと、上下のくちびるをすりあわせて色を伸ばしていたのをよく覚えている。祖母はいつも赤い口紅を塗っていた。それ、わたしも塗ってみたい。母親が化粧に無頓着だったわたしにとって、習い事で舞台に出るまで口紅は珍しいものだったので、どこにも出かけやしないのによくくちびるに塗ってもらっていた。祖母と近所のスーパーに買い物に出かけると、隣の薬局にあった化粧品のサンプルでよく化粧をしてもらったものだった。‬

‪祖母は浅草のうまれだったので、こどものころ祖母に手を引かれて遊びにいくところはいつも浅草だった。祖母は駅前にあるお蕎麦屋さんで長い間パートをしていて、火曜がおやすみだった。毎週火曜になると祖母はわたしたちを浅草のROXのなかのまつり湯や、浅草松屋(今はエキミセという名前らしい)に連れて行ってくれた。いま思えば小学校低学年のわたしと弟、幼稚園生の妹をつれてよく出かけてくれていたなあと思う。めちゃくちゃ方向音痴の祖母は、自分が住んでいたころと少しでも変わった街並みに入るとすぐに迷子になって、数mおきに人に道を聞いていた。‬

‪まつり湯にいくと、いつも長風呂をした。祖母とおふろに入って何を話していたかまでは覚えていないけど、とにかくいろんな種類のお風呂に入った。お風呂から出るとまつり湯のなかにあるレストランでピザを食べるのが決まりだった。チーズが乗っただけの、黒胡椒がかかったピザをいつも食べていた。なつかしい。祖母はいつも天ぷらうどんを食べていたのだけど、好き嫌いが多いから海老天をいつももらっていた。おばあちゃんが揚げたやつの方がおいしいね、と言うと、ほんとうにうれしそうに笑っていたのを覚えている。‬

‪両親が共働きで忙しかったので、一緒に住んでいる父方の祖父母と毎日夜ごはんを食べていた。祖父、祖母、わたし、弟、妹の5人で小さなちゃぶ台を囲んでご飯を食べた。祖母は味付けの天才だった。経験値の違いかもしれないけれど、適当に塩をふって適当に醤油を垂らしたらしい料理が、それはもうすべて計算したみたいにおいしかった。パートで働いていたころはわたしたちのご飯をつくるのもすこし大変そうだったけれど、パート先のお蕎麦屋さんがつぶれて仕事がなくなったあとは、毎日たのしそうにいろんなものをつくってくれた。きょうだい3人に違うメニューを出したり、何日も何時間もかかるような手の込んだ料理を出してくれたり。たぶん、もともと料理がすきだったんだと思う。‬

‪祖母とはいろんな話をした。学校であったことから、親と喧嘩したこと、きょうだいとのわかりあえないイザコザ、友だちとの関係、勉強について、両親にはまともに話さなかったけど、祖母にはなんでも話した。‬

‪一緒にクイズ番組を見ていてわたしや弟や妹がタレントよりも先に答えると「○○はほんとうに賢いねぇ。えらいねぇ」と言って褒めた。自分の字が汚いことがコンプレックスで、字を書くたびに「字がきれいで羨ましいわ」と褒められた。‬

‪祖父が先に亡くなって、祖母ひとりになった部屋。祖父の仏壇に手を合わせに行って、毎朝祖母とすこし話した。きょうの洋服どう、なんて聞いてみたりしたけれど、祖母はわたしが何を着ても褒めてくれるから、ほんとうはあまり参考にならなかった。帰りに○○買ってきてくれる?と頼まれるのも全然いやじゃなかった。わたしが親に対して大きな反抗期もなく過ごせたのは、まぎれもなく祖母のおかげだ。‬

‪祖母はわたしのことならなんでも知っていた。だから祖母が脳の病気になってだんだんいろんなことを忘れていったとき、絶対にわたしのことは忘れないと思った。自信があった。しかし祖母は病気が見つかって1週間で入院した。2週間で歩けなくなり、3週間で人の区別がつきにくくなった。1ヶ月経つ頃には、祖父が死んだこともわからなくなり、同居していなかった従兄弟たちのことがわからなくなった。2ヶ月経つと、ついにだれのこともわからなくなった。わたしが病院に顔を見せても、だれだかわからないまま話しているみたいだった。でも不思議とあまりショックじゃなかったし、悔しくもなかった。むしろ、祖母はとても臆病な人だったので、病気や死の恐怖におびえることがなさそうでよかった、とおもった。‬

‪病気が見つかって3ヶ月でついに祖母は昏睡状態になった。そのころわたしは大学2年生で、実験やら統計やらいろんな授業があって毎日いそがしくしていたけれど、かならず毎日病院に通って、面会終了の時間まで祖母のそばにいた。だれかにそうしなさいと言われたわけじゃなかったけど、看護師さんに顔と名前を覚えてもらうくらい病院に通った。管がたくさん繋がれた手を握っていると涙が出てきてしかたなかった。もう二度と話せないのかと思うとどうしたらいいのかわからなかった。昏睡状態のまま2ヶ月が過ぎ、絶対に自分が死んだ日を忘れないようにと、寂しがりやの祖母は元旦に亡くなった。‬

‪いちばんの理解者を亡くしてこれからどうやって生きていったらいいのかわからなかった。お葬式のとき、大きな花が祖母の遺影のまわりを囲んでいて、「孫一同」と書かれた札が立っていた。わたしもこの花になって一緒に燃やされたいと思った。これで姿を見られるのは最期になるからと火葬場の目の前で棺の顔の部分が開いたとき、それでもわたしは祖母の顔を見られなかった。‬

‪祖母はわたしたちといられてしあわせだったのかとときどき考える。亡くなってすぐはいつでもどこでもめそめそしていたわたしも、今はあまりめそめそすることはなくなった。毎日出かける前にかならず仏壇の前で手を合わせるけれど、悲しすぎるということはなくなった。けどお墓参りに行ったり、出先で仏花を買ったりすると、まだ涙が出る。髪切った方が似合うと言ったのは祖母だったのに。わたしの服装にゴーサインを出すのは祖母の仕事だったのに。‬

‪もういちどだけ祖母に会いたい。1分でもいいから会って、わたしの名前を呼んでほしい。ほんとうはわたしのことなんて覚えていなくてもいいから、名前を呼んでほしい。もういちど会って、わたしもひとことだけ祖母に声をかけたい。毎日ご飯ありがとう、おいしかったよ。‬